凍てついた決意(美佐の視点)
嘘の重み
浩一の退職願が受理された翌日、
美佐は、人気の無い給湯室で、一人震えていた。
(これでいい。これで、浩一は、この汚れた水槽から出られた。)
彼女の心臓は、薄い氷の下で激しく波打つ湖のようだった。浩一に冷たい言葉を浴びせ、プロジェクトのデータを捏造して彼を「信頼性の欠如」という汚名で切り捨てたあの日から、毎晩、悪夢を見ていた。
彼を救うためには、彼に憎まれる必要があった。
一ヶ月前
美佐は偶然、早乙女が仕組んだ社内システムの不正アクセスとデータ改ざんの証拠を掴んでしまった。それは、浩一が開発した基幹システムを悪用したものであり、もし公になれば、会社は一発で倒産し、責任はすべて開発責任者である浩一に押しつけられる状況だった。
美佐は、すぐに早乙女と接触した。
「私が、全ての責任を負います。ですが、浩一さんの名前をこの件から完全に外してください。彼のデータ改ざんを証明し、彼をプロジェクトから外せば、貴方の目論見通り、プロジェクトの主導権も握れるでしょう?」
早乙女は、美佐の提案を嘲笑うように受け入れた。
「愛する男を売るのかね?面白い。だが、条件は一つだ。きみが、きみの口で、彼を突き放せ。」
その瞬間、
美佐は、自分のキャリアと、浩一との未来を、自らの手でナイフで切り裂く覚悟を決めた。
凍えるクリスマス・イブ
Christmas eve
街中が暖かく輝く中
美佐のオフィスには、冷たい静けさだけがあった。浩一の退職によって生じた混乱を収束させるため、彼女は早乙女の指示の下、彼のシステムに残された不正の痕跡を一つずつ消し去る作業に没頭していた。
データが完全にクリアになったのを確認し、時計を見ると、午前1時を過ぎていた。
美佐は、疲労で鉛のように重い身体を引きずり、マンションへ帰宅した。
部屋の鍵を開け、明かりをつけようとした、その時。
(あれ…インターホンが、鳴った?)
気のせいかと思ったが、もう一度、微かな呼び出し音が聞こえた気がした。しかし、彼女が玄関の覗き穴から外を見ても、誰もいない。
美佐は、心の中で呟いた。
「バカね、浩一さん。もう、ここには来ないで…」
浩一の顔を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。あの日の別れ際、彼の目の奥に浮かんだ裏切られた痛みと、戸惑い。
あれは、彼女自身に向けられた罰だった。
彼を突き放すために、彼女が選んだ言葉は、最も彼を深く傷つける刃だった。
「これは仕事です。プライベートな感情を持ち込まないでください」
彼の純粋な情熱と、仕事への誠実さを、足蹴にするような言葉。それを選んだのは、浩一が、もう二度と自分に戻ってこないようにするためだった。
美佐は、コートを脱ぎ、部屋の隅にある小さなキャビネットを開けた。
中には、二年前に二人で訪れたニューヨークの街並みが写った、古びた写真立てがある。雪が降るセントラルパークで、二人は笑っていた。
彼女は、写真立てを抱きしめ、声を殺して泣いた。
「ごめんなさい、浩一さん。私の愛は、あなたを救うための、ただの足枷にはなれなかった…」
自分自身の孤独と、浩一の未来という重い代償を背負い、このクリスマスの夜を迎えなければならなかった。彼のシステムに残された不正の痕跡を消す作業は終わった。これで、彼は完全に安全だ。
彼女の耳には、遠く、街全体を包み込むように流れてくるクリスマスキャロルが届いていた。その清らかなメロディは、彼女の心の底にある、ほろ苦い真実を静かに照らし出す。
(いつか、あなたが、私を本当に憎んで、私を完全に忘れる日が来ますように。)
それが、
美佐が唯一、神に願うことだった。彼女は、浩一に背を向け、ドラマティックな再会ではなく、静かで永久的な別離を選んだのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます