I hear Christmas carols
比絽斗
By the time Christmas carols start to sound
【 プロローグ 】
白い嘘
12月の冷たい空気は、ガラス窓越しにも伝わってくる。高層ビルの28階にある彼のオフィスは、静寂と無機質な緊張感に包まれていた。
「…で、来月からの『アクアティック・ガーデン』プロジェクトですが、開発チームはすべて私が引き継ぎます。申し訳ありませんが、あなたのこれまでの成果は、いったん白紙に戻させてください」
向かいの席で、
早乙女(さおとめ)浩一は、まるで今日の気温を読み上げるかのように、淡々と告げた。
その言葉は、5年間、寝る間も惜しんで彼が心血を注いできた企画が、あっけなく切り捨てられたことを意味していた。
浩一の視線は、彼の部下であり、そして… 恋人である美佐(みさ)へと向けられた。
美佐は、きっちりとしたスーツに身を包み、少しも動揺を見せず、手元の資料に視線を落としている。
その涼しげな横顔は、浩一が知るどの顔よりも、プロフェッショナルで、そして、遠かった。
「早乙女さん…その理由は?」
浩一は努めて冷静な声を出したが、声帯が凍りついたように震えるのを感じた。
「理由は、一つです。あなたの…いえ、貴社の技術提案には、決定的な信頼性の欠如が見受けられました。具体的には、昨日、他社との競合プレゼンで、美佐が提出したシミュレーションデータが…」
美佐は、顔を上げ、浩一の言葉を遮るように発言した。
「浩一さん 私のデータが、最新のマーケット動向と乖離していたのは事実です。プロジェクトを成功させるため、早乙女さんのチームに託すのが最善と判断しました」
「美佐…君は、どうしてそれを俺に一言も相談しなかったんだ?」
美佐の瞳に、ほんの一瞬、感情の波がよぎった。
だが、すぐにそれは消え去り、彼女は冷たく言い放った。
「これは仕事です。プライベートな感情を持ち込まないでください」
その夜、二人の世界は、決定的に壊れた。
浩一は、美佐の部屋の合鍵を、何の言葉もなく郵便受けに入れた。美佐からは、別れのメッセージも、弁解の電話もなかった。ただ、街に流れ始めたクリスマスキャロルの、明るすぎるメロディだけが、二人の静かな別離を嘲笑うように響いていた。
キャロルの裏側
それから三週間。
浩一は会社を辞めた。美佐も早乙女も、その退職を淡々と受け入れた。
彼は新しい職探しもせず、ただただ街を彷徨っていた。
全ての街角から、楽しげなクリスマスキャロルが聞こえてくる。それは、かつて美佐と笑いあった日々を、鮮やかに切り裂く刃のようだった。
クリスマスイブの夜
雪がちらつき始めた頃、浩一は、美佐が住むマンションの前にある、小さな公園のベンチに座っていた。
「何をしているんだ、俺は…」
諦めきれない。それだけだった。
美佐が、自分を裏切ったはずなのに、彼女のあの冷たい瞳の奥に、何か隠されたものがあるような気がしてならないのだ。
午前0時を過ぎ、教会の鐘が鳴り響く。
その時、
一人の男が、美佐のマンションのエントランスから出てきた。
それは、早乙女だった。彼は、疲弊しきった顔で、何かを電話で話している。
浩一は、思わず身を潜めた。
「…ええ、彼女の報告書のおかげで、すべてはスムーズに進みましたよ。まさか、あの美佐が、自分の愛する男を切り捨てることで、会社の不正を隠蔽する側に回るとはね…」
浩一の耳は、凍りついたように固まった。
「あのデータ改ざんは、私が美佐に依頼したもの?馬鹿な。彼女は、君が開発したシステムに、内部の人間が不正アクセスを仕掛けていることに、気付いてしまったんですよ。それを公表すれば、会社自体が倒産する。だから彼女は、自分のキャリアと、そして…君の未来を守るために、すべてを自分の責任にしたんです」
早乙女は、笑い声にもならない乾いた声を上げた。
「『信頼性の欠如』?あれは、彼女が君を遠ざけるために創り出した、最高の“白い嘘”さ。君の計画を白紙に戻したのは、君のシステムから、彼女が不正の痕跡を完全に消し去るためだ。気づけよ、浩一。彼女は、すべてを失って、君だけを救ったんだ」
浩一の全身から、血の気が引いた。
美佐は、裏切り者ではなかった。彼女は、自分の未来も、名誉も、そして、二人の愛さえも犠牲にして、浩一を、その手で泥沼から押し出したのだ。
ドラマティックな結末
早乙女が立ち去った後
浩一は、震える足で美佐のマンションの扉の前に立っていた。合鍵は、もうない。
彼は、インターホンに手を伸ばしたが、すぐに引き戻した。
(今、俺が彼女に会って、どうする?すべてを知ってしまった、と伝えて、彼女の決意を無駄にするのか?)
彼女は、浩一を、自分の人生から切り離すことで、彼を守った。その傷だらけの決断を、彼が今、打ち破る権利があるのだろうか。
彼の頭上で、どこかの家の窓から、クリスマスの讃美歌が、静かに流れてきた。
浩一は、美佐の部屋のドアに向かって、か細い声で囁いた。
「メリークリスマス、美佐。…ありがとう」
そして、彼は、踵を返した。
彼は知っている。この街のどこかで、美佐は、一人でこのシリアスな現実を背負い、涙をこらえているだろう。彼は、もう彼女の傍にはいられない。彼女が選んだ、このすれ違いの道は、あまりにも強く、そして、ほろ苦い。
雪が舞う大通りに出た。人々の喧騒も、イルミネーションの輝きも、彼の心には届かない。
ただ、ふと足を止めたとき、遠くから、一つのメロディが、雑踏を切り裂いて聞こえてきた。
それは、稲垣潤一の、あの歌だった。
ねえ、クリスマス・キャロルが聞こえてくる頃には きみとぼくの、ドラマティックな人生が、きっと始まる
彼は、ポケットから、かつて美佐と旅行に行った時に買った、二人の名前が刻まれた古いキーホルダーを取り出した。
それを握りしめる。
(いつか、必ず。きみが、きみの選んだ道から解放される、その日まで…)
浩一は、美佐の作った「白い嘘」を、彼自身の「希望」という名の真実に変えることを誓った。
彼の心の中で、ドラマはまだ終わっていない。それは、二人が再会する、遠い未来のクリスマスまで続く、一人きりの、ほろ苦いプロローグなのだから…
▶▶重複する場面が多々在ります。▶▶
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