1・満月の夜は突然に
サクラちゃんはカレーが好き。
それもジャガイモだらけのカレーが好きだ。
それに満月が似合うのに嫌いらしい。
いつも家で待ってくれる。サクラちゃんの「おかえり」が好き。
だから、俺は…
「おなか…すいた…」
「は?」
この2人の出逢いは、とても単純だった。
佐倉颯太は役者を目指して劇団に所属してはいたが、
役もまともに貰えずか…いまいち調子が出ないまま、
何も変わらない日々を送っていた。
自分なりに努力はしていたものの状況はあまりよくなく、
焦りもあってか先が見えない生活をおくる姿は
自分でも情けなく惨めに感じて。
そう思いつつ、夜道を散歩するのは、気晴らしに良いし
気持ちもリセット出来て落ち着く。
自分の状況の泥沼と、この夜風の清々しさが見事に反比例する。
でもそれが気持ちよかった。
珍しく夜空に星が瞬いて見える夜空もいい。
今宵は満月。空からスポットライトを浴びたような感覚。
それもまた何だか心地良い。
主役のように踊ってみようか…と、
数時間前まで稽古中だったワンシーンを思い出しながら、
誰もいない深夜の道路の中心で一人ポーズを決めて…
今だけ舞台の主人公へと姿を変えてみる。
頭の中で流れるメロディとステップを合わせながら、
(観客の一人くらい居たらなぁ…気持ち良いのに)
そう我儘一つ。心の中で呟いていたその時――
(…鳥?)
突然羽ばたく音が聞こえ、
振り向いた視線の先に思わず動きを止めてしまった。
月に照らされた髪が輝き靡いていた。
月夜の光に当たった1人の女性の姿に佐倉は思わず見とれてしまい
「綺麗…」
自分でも気づかぬまま感想を呟いていて。
でも、その女性が立っているのは塀の上。
そんな所に居たら不審者に思われるだろう。
…そう思った佐倉も、さっきまで他人から見れば…
結構怪しまれる事を考えていたのだが。
「あ、あのっ!」
何も考えず、気がつけば佐倉は塀の女性に声を掛けていた。
「あのー。そこで何してるんですか?」
「え?あ…きゃっ!」
佐倉の声に気づくやバランスを崩しそのまま塀にから落下した。
「だ、大丈夫ですか?」
駆け寄ると…何処も怪我は無さそうで。
心配する佐倉を他所に、その女性から出た言葉は…
「……った」
「え?」
無事な音が腹から聞こえて来たかと同時に、口からこぼれたのは
「おなか…すいた」
「は?」
申し訳無さそうな笑みをこちらに向けた言葉に、
心配から一気に安堵へと変わった気持ちの佐倉は目が点になった。
あれから1週間。
2人は佐倉の部屋で暮らしていた。
アパートの階段を上る佐倉の足音が響く。
夕方に帰宅できるのは久々だ。
何処からかカレーの匂いが佐倉の鼻を誘った。
「ただいまー」
ドアを開けたらサクラが迎えてくれた。
と、同時に…
部屋中に外から流れていた美味しそうな匂いがそこにあった。
「おかえりなさい!ささっ、早く入ってくださいっ!!」
キッチンの棚にある大きい鍋。
一人暮らしで使わない所為かこれを見たのも久しぶりな気がする。
「じゃーん!!これ作って待ってたんです!」
ふんわりとした湯気と共に、鍋から…
「私からのプレゼント!いつも泊まらせてくれた御礼だから」
「すげー!このカレー、サクラちゃんが作ったの!?」
意外なサプライズに佐倉のテンションが上がった
「ん?まぁ…颯太くんの口に合うか分からないですけれど…」
何故がジャガイモが多かった
(と、言うより殆ど具はジャガイモだったけれど)が
久しぶりの手作りカレーは暖かくて美味しかった。
「ねぇサクラちゃん…」
カレーを食べ終えたスプーンを置き、佐倉は徐にサクラに問いかけた。
「サクラちゃんの家族は…そろそろ心配してるんじゃ…」
「…心配なんかしてません。」
複雑な理由なのか分からないが、
きっぱり言うサクラの様子に佐倉は頭を掻いた。
「居ても…いいよ?」
「え?」
「帰る所ないなら、暫くこっちに居ても良いけど」
「俺も一人じゃつまんないしさ、ルームシェア的な?」
「るーむ…しぇあ?」
佐倉の言葉に今ひとつな様子のサクラは頭を傾けた。
「ほら、一つ屋根の下で数人で暮らすやつ!まぁ…2人ってのも味気ないけどさ」
「サクラちゃんが帰りたくなった時までここに居たらいい。
まぁ、1人位増えても大丈夫だと思うし…駄目かな?」
サクラは目を瞬かせたまま、しばらく佐倉を見つめていた。
言葉の意味をゆっくり噛みしめるみたいに――そして、少しだけ顔を伏せた。
「……いいんですか?」
その声は小さくて、震えていた。
ずっと遠慮と不安を抱えたまま、この部屋にいたのだと分かる声だった。
「いいよ。っていうか……俺が言い出したんだし」
そう言うと、サクラはそっと胸の前で手を握りしめた。
落としてはいけない宝物でも抱きしめるように。優しく。
サクラはそっと胸の前で手を握りしめた。
落としてはいけない宝物でも抱きしめるように。優しく。
「……じゃあ、もう少し……ここに、居させてください」
「もちろん! 俺で良ければ!」
ほっと緩んだ空気の中、
テーブルの上のカレーの湯気がふわりと揺れ、
外から吹き込む夜風に溶けていった。
颯太は思わず笑った。
こんなふうに誰かと夕飯を食べて、
こんなふうに「居場所」を分け合うなんて、
自分にはずっと縁のないものだと思っていた。
サクラもまた、ほのかに笑う。
その笑みはまだ不器用で、どこか影を残しているけれど、
少なくとも今だけは――安心しきっていた。
「……にしてもさ、満月じゃなくても、こうして一緒に食べるのっていいな」
颯太の呟きに、サクラは小さく首を傾げた。
「満月じゃ……なくても?」
「うん。なんか……サクラちゃんって、満月が似合う気がしてたからさ」
「……似合いません。あんなの、好きじゃないです」
少し尖った声。
でも、不思議と怒っているようには聞こえなかった。
ただ――どこか怖れているように感じた。
颯太は「そっか」と笑って、それ以上は聞かなかった。
サクラの瞳に映った淡い影が何なのか、
その時の彼には知る由もなかった。
窓の外で風鈴の音が揺れ、夜は静かに深まっていく。
その時――
満ちた光が薄れるように、
部屋の外の空気がひんやりと変わった。
気づく者は、この部屋にはまだいない。
ただ、遠く離れた屋根の縁に下弦の月に照らされ、
三つの影が静かにその部屋を見下ろしていた。
翼もないのに風を受けて揺れる浮遊した影。
声ひとつ発しないまま――ただ、見据えている。
二人の穏やかな夜が、
ほんのわずかに軋む音を立てて
動き始めたことを知らせるかのようだった。
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