第一章 5



 十五で天涯孤独となった泉は、行く当てもなくふらふらと鎌倉の田舎町を彷徨い歩いていた。

 これが都会ならば生き残る術もあっただろうが、漁る残飯とてないような片田舎では、やっていけようはずもない。

 金もない、着るものとてない、頼る者すらない泉は、途端に飢えた。その辺に生えている雑草の根をかじり、小川の水を啜ってなんとか前へ前へと歩いていくうち、疲れと空腹でそこへ倒れてしまった。

 その老人とは、そんな時に出会った。

「ほほう」

 猫を連れたその老人は、ついていた杖で倒れた泉の顔をつつくと、

「死んでおるのかな」

 とお気楽な調子で言った。その声の明るさと杖につつかれた痛さとで、泉はそっと目を開けた。

「ほほう。目を覚ましたわい。これ、お前さんなんでこんなとこで寝ておる。答えんかい」

 つんつん、と顔をまたつつかれて、泉は呻いた。声が出ない。

「ふーむ。なにも言えないほど疲れておるのか、それとも腹が減っておるのか。これ、ちょっと舐めてやれ」

 老人が足元にいた猫に言うと、猫は泉の顔まで近づいてきて、まぶたをざりざりと舐めた。いてえ。それで、少し声が出る気がした。

「め……し」

「ほほう。飯か。腹が減っておるのか。こんなご時世に腹が減って行き倒れとは、酔狂な子供だのう。どれ、立ちなさい。儂の家に行こう。なんか食わせてやるから」

 老人は泉に肩を貸して立たせると、共に歩き出した。猫がそれに、とことことついてきた。

「お前さん、何日風呂に入っとらんのかね。まったく」

 老人は家に帰ると、表に出て風呂を沸かし始めた。

「ちと不便だが、うちは薪で風呂を焚く。薪はええぞ」

 そして大急ぎで米を炊くと、大きな握り飯を泉に作ってよこした。

「まずは、食べなさい。話はそれからだ」

 まともな食事にありつけたのは、何日ぶりだろう。泉はその馬鹿でかい握り飯をすっかり食べてしまうと、名残りを惜しむかのように米粒のついた指を舐めた。

「ふおーすごい食いっぷりだのう。五合も炊いたのにもうないわい」

 老人はふさふさの眉毛の下から目をまんまるにして驚きを露わにすると、さて、と座り直した。

「お前さん、どうしたね。名前は?」

「……泉。柳、泉」

「ほほう、泉か。ええ名前だのう。では泉。親御さんはどうした。なんであんなところに倒れておった」

「……死んだ」

 他の質問には答えずに、泉は短く言った。

「ふむ。他に身寄りはないのかね」

 泉はそれにも、短く答えた。

「死んだ」

「そうか……」

 老人はため息をついた。

「これから、どこへ行くのかね」

「手配犯のいるところに行く」

「なに、手配犯?」

 老人が、そのふさふさの眉毛を上げた。

「そんなところへ行ってどうする」

「……」

「だんまりか。まあええ。手配犯の数多くいる場所なら、もっと都会だろう。そこまで行くのには、金がいる。そこで暮らすのにも、まずは金だ。ここでしばらく暮らして、少し日銭を稼いでからでも遅くはなかろう」

 言うと、老人は膝をぽん、と叩いて立ち上がった。泉は驚いて彼を見上げた。

 飯を恵んでくれたばかりか、ここに置いてくれると言っているのだ。

 老人は家の戸口まで来ると、泉を振り返った。

「しかしまずは、風呂だ。文化的な生活をするためには、清潔でなくてはならん。お湯が沸いたから入んなさい」

 それで泉は、もうずっと入浴どころか身体も拭いていなかったということに気がついた。

 熱い風呂に入ると、骨身に沁みた。芯まで冷え、土の上で暮らしていた身体に、突如として電流が走ったような気持ちになった。

 風呂から上がると、ようやくこの家を見回す心の余裕が出てきた。

 家というよりは、小屋だ。玄関が引き戸になっていて、そこに小さな竈がある。側に水道が引かれていて、どうやら台所のようだ。

 そしてそこから外に出ると、風呂場がある。そこを沿うようにして、畑が伸びていた。

「おーい泉」

 老人が奥から彼を呼んできた。

「お前さん、まだ食べられるかの。儂はこれから夕食だ」

 食べられると言うと、老人は台所に立った。今どき、竈で米を炊くとはよほどの変わり者だ。器用な手つきで野菜を切り刻むと、火の上で鍋を転がして炒めていた。

「よーしできたぞい。うどのきんぴらさんと、大根の味噌汁。焼いたしゃけ。さっき炊いた米の残りじゃ」

 細く切ったうどの香りが鮮烈だった。味噌汁の滋味が沁みた。こんな食卓は、久しぶりだ。

 食べ終わると、泉が洗い物をした。老人はその間に彼のための布団を出して、空いた場所に敷いた。

「ちと狭いが、まあええじゃろう。疲れただろうから、もう寝なさい。明日は畑を手伝ってもらうぞ」

 やわらかい布団が、肌に心地いい。シーツは土のようにひんやりとしていたが、土と違って固くはなかった。野宿の生活を強いられてきた泉には、ありがたかった。

 翌朝日が大分高くなってから、泉は目を覚ました。ふんわりとした布団が居心地がよくて、それで夢見心地になってうとうととしていて、それではっとなってがばっと起き上がった。

 台所に出ていくと、畑ではもう老人が作業をしていた。

「おー起きたか。朝食はそこにあるでな、食べたら来なさい。手伝っておくれ」

 台所の隅に、握り飯が置いてあった。

 泉は大急ぎでそれを頬張ると、まだそれが口のなかにあるうちに畑に出ていった。

「ほほう、来たな。ではこれを持ってな、ここを耕しておくれ。儂はこっちに水をやる」

 縁側で猫が丸くなって、眠っている。鍬を持って懸命に耕しているうちに腰が痛くなり、背中が張り、腕が重くなった。

「ほほう、ふらふらだのう。まあ無理もないな。そんなに痩せていては。今日から献立に肉を入れなくてはな。成長期の少年には、なんといっても肉だ」

 老人の住む小屋には、最低限の電気しか引かれていないようだった。水道は台所と風呂場にあるが、畑にやる水は井戸から汲んだ。米を炊く時は薪をくべ、野菜を炒める時だけコンロを使った。

 野宿をしていると、時々石を投げられたり、通りすがりの浮浪者に殴る蹴るの暴行を受けていた泉であったが、ここではそんな思いをすることはなく、安心して時間を過ごすことができた。老人の書斎には古い本がたくさんあって、彼はよくそれらのものを時間のある時に読んでいた。猫が時々老人の膝に乗ってきて昼寝をして、そうするといつの間にか老人も寝てしまうということが度々あるようだった。

 老人は泉に、色々なことを教えた。

 学校で教えるような歴史、数学、英語から古文、漢詩に到るまで、その知識は実に幅広かった。おかげで泉は、人並みの教養だとか知性というものを持ち合わせて世間に出ることができた。それは、目に見えない財産だと、泉は思う。

 知恵がなければ、俺のような孤児が都会に出たら食い物にされて身ぐるみ剥がされていっぺんでおしまいだ。そう思っていた。

 ある日老人の書斎を掃除していて、壁になにかが横向きに差しかけられているのを見た。

「――」

 一振りの刀だった。

 そっとそれに触れようとすると、後ろから、

「気をつけなさい」

 と声がした。思わず振り返ると、老人が戸口に立っていた。

「それはひとを守るものだが、傷つけるものでもある。扱いを間違うと、自らの命をも危うくなる」

「これ、じいちゃんの?」

「忘れたよ」

 老人が背を返して行ってしまったので、なんとなくそれ以上聞いてはいけない気がして、泉は聞くのをやめた。

 それから半年もした頃、買い出しから戻ってきた泉は、何者かが小屋を訪れているのに気がついた。一人ではない、複数だ。

 五、六人の男が、老人を訪ねているのだ。

 その、あまりの物々しさ、男たちの持つ刀、なにより彼らが放つ異様な殺気に、泉は買ってきたものをそこに置いて、思わず物陰に隠れてその様子を見ていた。

 どうやら数人が小屋のなかにいて、老人と話をしているようである。話し声がわずかに聞こえてくる。

 それがうまく行かなかったのか、老人が杖をつきながら表に出てきた。男たちはそれを、半円を描いて取り巻いた。

 なんだあいつら。じいちゃんを、どうするつもりだ。

 男たちは全員、刀を持っている。対する老人は、杖一本だ。勝ち目など、あろうはずもない。

 そう思っていた。

 しかしそれも束の間、老人が杖を構えるや否や、男たちは次々と刀を鞘から抜き我先にとその老体にむかって飛びかかっていった。

「――」

 なにかを打つような音が、数回。

 次の瞬間、男たちは地面に倒れ伏していた。

「その程度か。出直して来い」

 老人は倒れる男たちには一瞥もくれず、なかに入っていった。男たちは呻き声を上げながら、互いに互いを支えて起き上がり刀を拾って逃げていった。

 泉は茫然と、それを見つめていた。

 そしてすぐに我に返ると、小屋のなかに入って老人に向かって両手をついた。

「おう、おかえり。目当てのものはあった……」

「弟子にしてください」

 老人を遮って、泉は叫ぶように言った。ふさふさの眉毛を上げて、老人は泉を見た。

「お願いです。弟子にしてください」

「なんだ藪から棒に。買い物はどうした」

「弟子にしてください。お願いします」

「それしか言えんのか。儂はもう弟子は取らんよ」

 泉は一層頭を深く下げて、床に頭をこすりつけて叫んだ。

「お願いです」

 老人はため息をついて、泉の近くまで歩み寄った。

「なんでそんなに強くなりたがるんじゃ。ええことはないぞ」

「手配犯に、復讐するためです」

「――」

 泉の血を吐くような言葉に、老人は棒を吞んだような顔つきになった。

「憎い手配犯がいるんです。そいつに復讐するために、俺は強くならなきゃいけないんです」

「ははーん。だから都会に行きたいと言っておったのか。なるほどなあ」

 老人は泉を立たせると、椅子に座って向かい合った。

「そうか、お前さんは身内を手配犯に殺されたんだな。それでその手配犯をその手で殺したいと思っている。そうだな」

 泉は黙って、こくんとうなづいた。

 決意を秘めたその強い瞳に、老人は口のなかで唸った。

「泉よ。剣を学ぶというのは、なまなかなことではないぞ。それはすなわち、殺す、ということを学ぶということだ。人殺しの道を歩むことだ。その覚悟は、できておるのか」

 泉は、黙ってうなづいた。

 老人は深々とため息をついて、

「ふむ。そうか。ならば仕方ない。一度は引退した身だが、よろしい。教えてやろう」

 ぱっと笑顔になる泉に、しかし老人は杖を突き出して言った。

「だが、覚悟しておけよ。修行は厳しいものになるぞ」

「は、はい」

 翌日から、老人と泉の修行が始まった。

 二人は毎日近くの低い山の庵まで行って、そこで時間を過ごした。

 庵には台所があったので、老人は竈に火をつけてお茶を淹れた。だが、水道は引かれていないので、山の下の井戸から運ばなければならなかった。それを運ぶのは、泉の役目だった。

 桶に水を汲み、それを肩に担いで階段を上る、という作業を毎日繰り返すうちに、足腰が鍛えられ身体ができあがっていった。

「足腰だけではだめだ。上半身も鍛えなければ」

 老人はそう言って物干し竿に泉を逆さまに吊るし、身体が伸びきった状態でそこから地面の桶のなかにある水を杯で汲ませた。そうして腹筋をさせて、上にある茶碗がいっぱいになるまで水を満たすのである。茶碗が水で満ちる頃には、ふらふらになっていた。

 それが終わったら、剣の稽古だ。

 木刀に鉄条を巻いた、とてつもなく重いものを一日に五百回振り終わらないうちは、山を下りてはならないと老人に言われ、力いっぱい腕を振った。

 五回振って腕がだるくなり、十回振って身体がゆらゆらと揺らいだ。これを日が暮れるまでに五百回など、とてもではないが無理だ。

「ほいほい、終わらんと飯が食えんぞい」

 日が暮れると、老人はさっさと山を下りて行ってしまい、自分で飯を炊いて食事をすませ、風呂に入り、就寝してしまう。泉は九時頃になってふらつきながら小屋に戻ってきて、震える手で冷えた食事を食べ冷めた風呂に入り布団に潜り込む。

 そんな毎日を繰り返した。

 四か月もすると、木刀を振るうのが苦ではなくなってきた。その次の月には、日が暮れる頃には山を下りられるようになった。

「ほほう。思ったより早かったのう」

 老人はそう言うと、泉になにも巻かれていない、ふつうの木刀を渡した。

「では次に技の勉強だ。技は、太刀から入る。これが一の太刀」

 太刀が決まれば、自ずと技ができあがる。剣技は、その奥にある。

 老人は泉にそう話して聞かせた。

 また彼は、休息することの大切さをも、泉に説いた。

「よく食べよく学びよく鍛えよく休む。それが儂流だ。何事も、過ぎたるは毒が如し。身体も鍛え過ぎるといじめ過ぎになってしまうでな。昼寝せい」

 そう言って泉を休ませた。

 ある日、老人はこんなことを言った。

「手配犯を手っ取り早く探すのなら、殺し屋になるのが近道だな」

「殺し屋……?」

「法だけでは裁けない、法の手を逃れた凶悪犯を裁く復讐代行人だよ」

 殺し屋の存在は法で守られ、登録した土地だけで手配犯を始末するのならば、その私刑は許されるのだという。

「そんなの、法律があっても意味ないじゃん」

「そうさな。だが時にひとは、とんでもなくずる賢くなって何十年も前の古い法律を自分たちのいいように解釈したり抜け穴を作ったりしてしまうものなんだよ。そうやって世間を大手を振って歩いている凶悪犯が、日本にはあふれている。法律家はなにもできない。 殺し屋は彼らの代わりにそんな凶悪犯を始末する掃除屋とも呼ばれている」

 それだ。

 泉は思った。

 それこそが、俺の目指すものだ。

「俺、殺し屋になる」

 泉は言った。

「殺し屋になって、どうしても手配犯に復讐するよ」

 老人はふさふさの眉を少しだけ動かして、低く言った。

「しかしそれは、安易な道ではないぞ」

 泉は老人を見た。

「他人を殺し自分の欲求を晴らすというのは、絶大な危険を孕む。殺生というのは、それほどのことだということを覚えておくがいい。儂はそれに嫌気が差して引退した」

「あいつらも、その時に会った奴らなの」

 おずおずと聞くと、老人は快活に笑った。

「なあに、そんなことはお前さんの気にすることではない。さあ、飯の支度だ」

 そうしてまた、修行に明け暮れた。

 一年が経った頃、老人は己の刀を泉に差し出して言った。

「儂からお前さんに教えることはもうない。これを持って行くがいい」

 両手にずっしりと重いその刀の、柄の艶、握りのこすれた痕、ひんやりとした感触が伝わってきた。

「お前がこれから行く道は、修羅の道だ。泉よ」

 老人は言った。

「復讐とは、血の流れない鬼夜叉のすることと覚えおけ。いざ目指す男が目の前に立つ時、神がそこに立ちはだかれば神を斬れ。仏が邪魔をすれば仏を斬れ。この刀はそれができるよう鍛えられている」

 泉はその刀を鞘からそっと抜いた。

 白い刀身が光を受けて、ぎらりと光った。

「新宿へ行け、泉。お前の目指す男は恐らくそこにいる。そしてそこで殺し屋になるのだ」

 新宿へ――

 そうして泉は老人の元を離れ、文明社会へ戻ってきたのである。

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