第一章 4

翌週からは、また手配犯を探す生活に戻った。

 手配犯の情報というのは殺し屋稼業をしていれば誰でもアクセスできるから、誰が仕留めるかは早い者勝ちだ。だから、基本足で探すしかない。頼りになるのは、手配犯の縄張り情報と顔写真、それと身体的特徴のみなのである。

 だが、手配犯の身体の一部を持っていく場所に顔が利くと、たまにあちら側から話を持ちかけられる時がある。多くの場合、それは事情があることがほとんどだ。

 泉にその話が舞い込んだのも、そんなある日のことだった。

「まあまずはこの写真を見てよ柳ちゃん」

 店主はその写真を泉に渡すと、彼がその裏のQRコードを携帯で読み取るのをじっと見つめていた。

 『依田孝之 百五十六センチ 五十六キロ 身体的特徴 特になし 東京地方裁判所 裁判官』

「裁判官?」

 泉は思わず声を上げて、店主の顔を見た。

「これは、犯罪者どころか一般人じゃないか。なんでこれが手配犯なんだ」

「それがさあ」

 店主は肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せた。

「ひどい話なんだよ」

 店主はそう言って話し始めた。

 実の父親に性的虐待を受け続けてきたと訴えた娘の裁判が、東京で行われた。その虐待は実に十二年にも渡り、娘は心身ともにすり減って誰にも相談することができず、家庭での居場所や進学のことを考えると拒絶することもできず、父親に犯される生活を送ってきたという。

 いざ訴えるという段になって、責められたのは父ではなく当の娘であったというのだから驚きだ。

 今は結婚して姓も変わったその娘は、裁判で十二年間の生活を切々と語った。

 それは、聞くだにおぞましいけだものとの暮らしであった。

 反対尋問で、大きな論点になったことがある。

 それは、

「彼女に不同意はできたか」

 ということであった。もしできなかったのなら、なぜしなかった、それはそれで父親に対する名誉棄損になると、父親の側の弁護士はこう言ってきたのだそうだ。

「そんな馬鹿な話があるか」

 泉は吐き捨てるように言った。

「子供とそういう行為をする時点で犯罪なのだと、なぜわからない。子供は本来守る存在だろう。しかも実の娘なんだろうが。拒絶したらその日から暮らしに困るかもしれないという恐れが心のどこかにあれば、拒絶などできるはずがない」

「とまあ、それがふつうのひとの反応だよね。ところがさあ、裁判長はそれに同調しちゃって」

 店主はため息をついた。

「不同意しなかったのは、彼女にも責任があるとかなんとか言って、父親を三年の執行猶予にしちゃったんだよ」

「そんなの許されるか」

 泉は声を荒げた。

「性交の同意不同意には、成人としての意志が必要だ。子供にそんなことがわかってたまるか」

「そうなんだけど、もう判決は下っちゃったから」

 泉は苦虫を噛み潰したような顔になって、頬杖をついた。

「それで」

「え?」

「それで、なんで俺なんだ」

「ああ、そこなんだけどね」

 店主は言った。

「この裁判長、過去にも色々やらかしがあるんだよ。例えばはちみつ精液事件とか」

「はちみつ……なんだって?」

「はちみつ精液事件。ある会社員の男が、会社の同僚の机の上のはちみつに自分の精液混ぜて、それを紅茶に入れて飲むのを見てほくそ笑んでたっていう事件があったんだけどね」

「聞くだに胸が悪くなる話だ。なんでそんなことするんだ」

「女を見下してるんじゃない? 知らないけど。とにかくその男、女性用トイレのなかに入り込んで生理用品とかを捨てるごみ箱のなかにも射精してたとかで、訴えられたんだよ」

「で、何年食らったんだ」

「そんなんで食らわないよ。器物損壊で訴え取り下げだよ」

「傷害じゃないのか」

「刑法にはないんだよ、そういう事項が。だから器物損壊ですまされる。多いよ、そういうの」

「それで、取り下げたのがその例の裁判長なのか」

「そうそう。でね、調べると、まあ出るわ出るわ。痴漢にスカート切り、アパート侵入して強姦未遂、みんな無罪にしてんの。絶対わざとだよ」

「刑法にも問題があるが、司法の長にも問題があるということだな」

「で、潜在的手配犯ってことになった。どう、やってくんない」

「気が進まない」

「なんでよ」

「潜在的というなら、まだやっていないんだろう。それに、直接手を下したわけじゃない。

 俺が相手にするのは、凶悪犯だけだ」

「だから厄介なんだよ。手を汚さないくせに、悪党に手を貸してんだよ。どんなに被害者が勇気を出して声を上げたって、こういうのがいたらみーんなおじゃんじゃん。殺し屋っていうのは法の手が届かないそういう連中を自分たちで裁くためにいるんでしょ」

「だがなあ」

「裁く側の人間に問題があったら、正しい法も機能しない。法律にはまだまだ欠陥があるけど、これはそれ以前の、人為的なものだ。殺し屋はそういうもののためにあるんだろう」

 じっと見つめられて、泉は片手で顔をなでた。そしてため息をつくと、

「……一回だけだぞ」

 と言って立ち上がった。

「やってくれるかい」

「二度はない」

 そう言うと、刀を手にして出ていった。

 今から行けば、夕方には間に合うだろう。

 タクシーで東京裁判所の前まで行くと、なかに入った。夕方には裁判は終わるはずだから、ここで待っていればそのうち出てくるはずだ。

 その後どうするかは、考えていない。

 だいたい、初めからやりたくてやっているわけではない。

 気が乗らなかった。

 それに、相手は凶悪犯ではない。一般人だ。その首を切るというのはどうも、気が引ける。殺すか、殺すのならどうやって殺そうかと考えを巡らせていると、あちらからぞろぞろと人が出てきて、泉は目をやった。

 ――いた。あれだ。

 鞄を提げた依田の後についていくと、距離を置いて尾け始めた。

 このまま帰宅だろうな。さて、どこで殺るか。

 などと考えていると、駅に着いた。電車に乗る依田の姿を確認して、混雑しているのをこれ幸いに近くに立った。

 ひと駅、ふた駅とやり過ごすうちに、泉の研ぎ澄まされた感覚が、なにか妙なものを感じ取った。

 依田の前に立っている制服姿の高校生らしき女の子が、しきりに鞄を持ち直しているのである。そして、何度もスカートを直しては、身体の位置をずらしている。しかしラッシュ時の電車のなかであるため、それは大したことではないように見えた。

 だが、なにかがおかしい。

 少なくとも、泉はそう感じた。

 次の駅で人が降りていったのを機に、泉は依田の真後ろに立った。そして、女子高生を観察した。

 居心地が悪そうに、何度も制服を直している。鞄の位置も、ずれているようだ。

 なんだ。なんでそんなに制服が気になるんだ。泉はそれが気になって、なんとかして依田の死角に入り込んだ。

 そこで、声を出しそうになった。

 なんだこれは。

 依田は胸に鞄を抱えている。抱えているように見せかけて、片腕を女子高生の身体に巻きつけ、胸を撫でまわしているのである。

 泉の目が、怒りで燃え上がった。

 正義の裁判官が、痴漢行為か。

 さりげなく腕にぶつかるようにすると、依田は慌てて腕を引っ込めた。彼は次の駅で降りた。

 泉は腹立たしい思いを抱えながら、依田にぴったりとくっついて行った。

 エスカレーターに乗っていると、彼がスマホを取り出して前の女性のスカートの下から盗撮しているのがわかった。

 泉は目を覆いたくなった。しかし、ここで警察に突き出しては元も子もない。依田が地上に出るのを待って、時機を窺った。

 依田はどうやら、バスに乗るようである。それを見失わないようについて行って、彼が降りるのを確認して同じ停留所で降りた。

 怪しまれないように、距離を置いて歩く。すると、妙なことに気がついた。もう一人、同じ方向を歩く人間がいる。

 依田の前に、ミニスカートの女子高生が歩いている。それを見た途端、泉は嫌な予感がした。

 わざと姿を隠して依田から見えないようにしていると、彼は辺りを見回して周りに誰もいないことを確認し、その後いきなり女子高生の後ろに走り寄って羽交い絞めにした。

 やりやがったな。

 女子高生の悲鳴が漏れた。が、口を塞がれたのだろう。大きな声は聞こえない。泉は走り出して、道の脇に倒れ込んだ依田の背中を蹴り上げた。

 男の丸めた背がごろんごろんと坂道を転がっていって、女子高生が解放されたかと思うと、泣きながら逃げていった。

「痴漢行為に盗撮に強姦未遂か。とんだ正義の味方だなあ裁判長さんよ」

 風が強い。泉の一つにまとめた髪が、横に流れている。

「なっ誰だ貴様なにをする」

「それはこっちの台詞だ変態法律家。てめえ、若いのが好みか。おっさんのくせして選り好みしやがって虫唾が走るぜ」

 泉は刀を抜いた。

「引き受けた時は嫌々だったけどな、もうそうじゃないぜ」

「な、な、なんだお前は」

「俺? 俺は……」

 泉が刀を構えると、男は背を向けて逃げ出した。

「お前みたいなクズ野郎を叩きのめす殺し屋だよ」

 その背中を切り裂くと、男はそこに倒れ伏した。

「た、た、助けてくれ」

「裁判でもみんなそういう気持ちで訴えてきたんじゃないの? みんな正義と法を信じて、なんとかしてもらえると思って勇気を出して声を上げて、蓋を開けたらあんたみたいのがいた。やってらんないよな」

 泉、心せよ。

 ふと、誰かの声が風に乗って聞こえてきた気がした。

 復讐とは決して平らかな道ではない。曲がりくねり捻りあがり、茨が生い茂る至難の道のりと心せよ。そして殺し屋になるということは、その復讐の手助けをするということに他ならない。

「まあ裁判長様もとんだ変態野郎だったから俺も安心して首を切れるぜ」

 ざしゅっ、血飛沫が上がる。

 泉は首を袋に入れると、死体をそのままにして道を後にした。

 この話を引き受けた時の気持ちなど、とっくに消えていた。

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