光の落ちる場所で揺れる日々
第25話 ラベンダーの気配
星盾庁の扉を押すと、外より暖かいはずなのに、どこか乾いた冷気が胸の奥に入ってきた。磨かれた床が冬の光を滑らせ、白い壁がその反射を吸い込みきれずに薄く返す。雲の切れ間から落ちた淡い色が、庁舎の中では一段やわらいで見える。今日の予定は決まっている。星ノ宮の日の卒業任務。その編成確認だ。
エレベーターの扉が閉まると、庁舎に特有の静けさが耳を満たした。階が変わるごとに空調の音が違って、いつも後勤課のある階だけは湿度が少し軽い。扉が開き、白い廊下の先に、機器の低い駆動音が薄く揺れているのが聞こえた。私はカードをかざし、後勤課の扉を開ける。
空気が変わった。紙と金属のにおいが混じり、測定機器の光が壁に淡い縁取りをつくっている。奥のエリアで、見慣れない色がふわりと目に触れた。淡い紫の髪が、揺れもしない空調の風でそっと整えられたように光っている。制服の上に白衣を重ね、細い治癒杖を胸元に抱える少女が早瀬と話していた。
日比谷透羽。治癒・安定化系。星盾庁でも少ない分類だ。基礎訓練も評価指標も安定し、残すは卒業任務のみ。週に一度だけ同じ廊下ですれ違うだけなのに、妙に「名前を知っていた気がする」同級生の顔が、ふと実在として輪郭を帯びる瞬間がある。今の印象はそれに近かった。
「篝見教官、お疲れさまです」
早瀬がこちらに気づき、タブレットを軽く持ち上げた。「日比谷さんの治癒層、最終調整が終わりました。安定度は基準値を十分に超えています」
透羽がこちらへ向き、静かな礼をした。
「日比谷透羽です。……調整、ありがとうございました」
声に揺れがない。必要な強さだけを喉に通した、淡いけれど芯のある響きだった。
「準L3の斜輝層だと聞いている」
私が言うと、早瀬は短く頷く。
「ええ。半実体の成形途中です。安定化の補助があれば、任務として成立しますし、安全面も十分です」
事務的な声でもなく、過剰に柔らかくもない。必要な情報だけをそっと置く早瀬の話し方は、この部屋の空気に馴染んでいる。斜輝層。成形しきる前の構造体。討伐班を動かすほどではなく、卒業任務に向いている種類だ。
「日比谷」
名を呼ぶと、透羽は杖を軽く持ち直し、こちらを見た。
「はい」
「今日は星ノ宮の支援に入る。治癒と安定化。できるな」
「……はい、大丈夫です」
胸の前で呼吸を整えたあと、すっと背が伸びた。余計な力のない姿勢。光を扱う者に特有の静かな立ち方。
私は軽く頷き、後勤課を出た。
廊下を歩く。照明が均一に光を落とし、靴音が薄いリズムのように響く。途中で足音が一つ、同じ速度で近づいてきた。振り返らずともわかる。透羽が合流したのだ。制服も白衣も脱ぎ、簡易ジャケットに変わっている。ラベンダーベージュの髪が肩で揺れ、小さな青いペンダントの光が胸元で控えめに呼吸していた。
「入るぞ」
私は訓練室の扉を押した。
中央に星ノ宮がいた。背中を丸めすぎないよう、ゆっくりと肩を回している。淡い銀金色の髪が動きごとに光の細片をこぼし、照明がその輪郭を拾って柔らかく返す。私に気づくと、星ノ宮は軽く姿勢を整えた。
「……先輩、おはようございます」
「ああ」
それだけ返し、後ろの透羽に視線を向ける。
「星ノ宮。今日の卒業任務には支援が入る。日比谷透羽。治癒・安定化系だ」
透羽が一歩前に出て、小さく頭を下げた。
「星ノ宮さん、よろしくお願いします。……今日は側で支えます」
星ノ宮は驚いたように瞬きし、すぐに会釈を返した。
「日比谷さん……よろしくお願いします」
同じ校舎にいても接点のない同級生同士の、ちょうどその距離感。二人の息の重なり方はぎこちないが、拒む音はどこにもない。
「説明に入る」
私は壁のパネルを立ち上げた。ホログラムが淡い光を室内に落とし、地図と光律のラインが浮かび上がる。扱い慣れた光景でも、初めて任務に向かう者の前では、その輝きがほんの少し違って見える。
星ノ宮が一歩近づいてパネルを覗き込む。ホログラムの光が頬に薄く反射して、緊張と注意がそのまま輪郭に乗って見えた。彼女の呼吸の浅さはすぐに分かる。声に出さないまま、肩のわずかな上下が示していた。
「場所は多摩川沿い、第三観測副区画だ」
私は地図を切り替える。旧観測所跡地の半地下構造が立体で浮かぶ。光律の濃淡が筋を引き、その中心に“揺れ”の表示が細く脈打っていた。
「光律の乱れが長期的に蓄積し、構造体の成形が始まっている。対象は準L3《斜輝層》。半実体だ。既に隔離フィールドで封鎖している。周辺は退避済み」
星ノ宮の視線が図をなぞる。どこか必死に飲み込もうとするような、ひたむきな速度がある。焦りではないが、速度だけが一歩先へ急ぐ。それを自分で抑え込もうとする気配が、呼吸の底でかすかにざらついた。
「本来のL3なら、即時討伐班が動く」
私は淡々と言葉を継いだ。「だが今回は成形が浅い。卒業任務としては妥当だ。隙が必ず生じる」
その言葉に、星ノ宮の肩の強張りが少し和らいだ。完全にではない。けれど、自分に与えられた役割を、ようやく掴めるところまで気持ちが戻ったのが分かる。
「星ノ宮の任務は核心を断つことだ。ラインビームで再構成の隙を狙う。それだけだ」
「……はい」
返事は小さいが、震えていなかった。少し前の星ノ宮なら、もっと声が細くなっていたかもしれない。そういう比較が自然と頭に浮かぶのは、私の悪い癖だ。
その隣で、透羽が地図に視線を落としたまま、小さく息を整えた。
「光律の層……薄いところと厚いところが混ざっています。揺れやすい構造です。星ノ宮さんの光が散らないように、側で調整します」
言葉の選び方も、声の運びも、角がなくて柔らかいのに、核心だけははっきりしている。治癒系の中でも稀に見える、“支えること”そのものを最優先に置くタイプだ。
星ノ宮は戸惑いの色を一瞬にじませて、すぐにそれを飲み込み、頷いた。
「……お願いします」
二人の距離が、ほんのわずか近づいた。まだ友人でもなく、チームとして形ができたわけでもない。ただ同じ方向を向く気配だけが、静かに境界を変えた。
私はパネルを閉じ、呼吸を整える。
「移送結界を使う」
星ノ宮が軽く目を瞬いた。知らない機能に触れる前の反応。恐れというより、慎重に歩幅を合わせようとする姿勢だ。
「庁舎内の固定ノード間だけを繋ぐ局地移送だ。魔力消費が大きい。任務と緊急時以外は使わない」
扉を開くと、外の照明よりわずかに暗い光が床を照らしていた。空気は澄みすぎていて、何かを吸い込むより先に音が消えていくような感覚がした。無窓の小さな室内。壁には余計な装飾がなく、足下に細い光のラインだけが伸びている。
「入れ」
私が先に歩き、星ノ宮と透羽が続く。三人がそろった瞬間、扉が静かに閉まった。空気がひとつ深く沈むような気配があり、次の瞬間、景色の縁が薄く震え、世界が滑るように切り替わる。
音も光もない。ただ一枚、空気の膜を越えたような感覚。
扉が開けば、隔離区の入口へ続く通路が現れるはずだ。
三人の歩幅がそろう前に、私はわずかに先へ出る。支える側が後ろを見すぎる必要はない。星ノ宮の評価は、これから先にある。
「行くぞ」
返事は聞かずとも分かる。背後の足音が、同じ速度で揺れずについてきた。これでいい。任務は、ここから始まる。
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