第24話 温度の残る夜
粥の入った器をテーブルに置くと、木の表面がかすかに鳴った。湯気がゆるく広がって、さっきまで冷えていた空気の上に、薄い膜のようにかぶさる。
向かい側に腰を下ろした篝見先輩が、静かに手を合わせた。私も慌てて真似をする。
「いただきます」
二人分の声が重なったのかどうか、自分の耳ではよく分からなかった。ただ、その一瞬だけ部屋の輪郭がはっきりした気がした。
匙ですくった粥は、思ったよりとろりとしていた。口元に近づけると、南瓜と小米の匂いがふわりと強くなる。少し迷ってから、一口、舌の上に落とした。
熱さはきつくなくて、ぎりぎり「おいしい」に収まる温度。南瓜の甘さと、小米の細かい粒の存在感が、喉の方へゆっくりと落ちていく。胃のあたりが、じんわりと温かくなった。
「……どうですか」
向かいから、篝見先輩の声がした。問いかけというより、確認のような響き。
「おいしいです。すごく……やさしい感じで」
言葉にするのが少し照れくさくて、「やさしい」という曖昧な形に逃げた。それでも、それしか思いつかなかったのも本当だった。
篝見先輩は小さくうなずき、自分の器にも匙を入れる。一口食べて、わずかに目を伏せた。
「そうですね。やわらかい味です」
それだけの感想なのに、胸の奥にまた何か落ちた。硬い石ではなく、小さな布切れみたいな、形のよく分からないもの。
匙が器の内側を軽くなぞる音が、一定の間隔で続いていく。部屋の中にある音は、それと換気扇の低い回転音くらい。テレビも音楽もつけていないのに、不思議と静けさが重くならない。
「冬は、こういうものが合いますね」
少し間を置いて、篝見先輩がぽつりと言った。視線は器の中の粥に落ちたまま。
「……そうですね。外、すごく寒かったですし」
返しながら、自分でもあまり中身のないことを言っていると分かる。それでも、その薄さがちょうどよかった。粥の温度に合うのは、これくらいの会話なのだと思う。
ふと、スプーンが器に触れる音を聞きながら、放課後の教室を思い出した。クラスのほとんどが帰ったあとの、静かな時間。教科書を閉じる音とか、ペンをしまう音とか、何でもない小さな音が、やけに耳に残るあの感じ。
隣の席で、週に一度だけ髪型を変えていた子がいた。勉強のときはほとんど喋らないのに、横顔の雰囲気だけ、少しずつ違って見える日がある。それに気づいてしまう自分が、なぜか落ち着かなかった。
今、向かいにいる篝見先輩の存在感も、少しそれに似ている。大きな変化はないはずなのに、視線を外しても、気配だけがそこに残り続ける。
「……小米、思ったより粘りがありますね」
篝見先輩が匙を持つ手を一瞬止めて言う。粥の表面がゆっくり揺れて、光を細かく反射した。
「たしかに。なんか、ちゃんと“ごはん”って感じします」
答えながら、自分でも説明になっていないと思った。それでも先輩は否定もせず、小さく口角をゆるめる。
「ええ。軽すぎず、重すぎず」
それが粥のことだけを言っているのかどうか、一瞬だけ分からなくなる。でもすぐに、考えすぎだと打ち消した。空中に勝手な意味を足すのは、訓練で何度も注意されたばかりだ。
それからしばらく、二人ともほとんど喋らなかった。話さないのに、不思議と居心地の悪さはなかった。器の中身が減っていくのを確かめるように、ただ黙ってスプーンを動かした。
最後の一口を飲み込んだとき、胸のあたりまで温度が届いているのを自覚した。身体の内側の輪郭が、少しだけはっきりしたような感覚。
「ごちそうさまでした」
篝見先輩が手を合わせる。少し遅れて、私も同じ言葉を口にした。
テーブルには、空になった器と、湯気の残り香だけが残っている。しばらくそれを眺めてから、私は立ち上がった。
「片付け、私がやります」
そう言うと、篝見先輩も椅子から身を起こした。
「いえ。半分は、私が」
淡々とした口調なのに、譲る余地のない静かな意思が混じっている。結局、私は器と箸をまとめて持ち上げ、先輩は鍋とスプーンを手に取った。
狭いキッチンの前に二人で並ぶと、さっきより部屋が少し小さくなったように感じた。肘が触れるほど近くはない。それでも、動くたびに気配が重なる。
水を出すと、ステンレスのシンクに当たる音が広がった。私が器をすすぎ、先輩が鍋をゆっくり洗う。一つひとつ、泡が流れていくたびに、さっきまで残っていた粥の匂いが、別の形に変わっていく。
「本当に、家でここまで作ってしまってよかったんですか」
ふいに、篝見先輩がそう聞いた。責めている響きではなく、純粋な確認のような声だった。
「はい。というか……先輩の作るごはん、食べられてうれしかったので」
言ってから、自分で少し驚いた。素直に出た言葉だったけれど、耳にしてみると、予想よりも真正面からの感想に聞こえる。
篝見先輩は、洗っていた鍋から視線を外さないまま、ほんの少しだけ動きを緩めた。
「そう言ってもらえるなら、よかったです」
水を止める音が、会話の区切りを作る。私は布巾を取り、器の水気を拭いて棚に戻した。手の甲に残った湿り気が、部屋の温度より少し低い。
「……ありがとうございます」
ふいに、先輩の方からそんな言葉が落ちた。何に対するものなのか、一瞬分からない。粥を作る場所を貸したことか、それとも一緒に食べたことか。
問い返す勇気はなくて、私はただ「いえ」と小さく答えるだけにした。
シンク周りが元の静けさを取り戻すと、時計の音と外の遠い車の音が、少しだけはっきりしてきた。
「そろそろ、お暇します」
篝見先輩がそう言い、玄関の方へ向かう。私は慌ててあとを追って、ドアのそばで立ち止まった。
靴を履く先輩の背中は、いつもの庁舎で見るそれと同じ形をしていた。けれど、薄く南瓜の匂いをまとっている気がして、少しだけ違うものに見える。
手袋を指先まで整えたあと、篝見先輩は振り返らずに言った。
「……今日は、ごちそうになりました。ありがとうございました」
丁寧な言い方なのに、どこか、仕事の挨拶とは違う柔らかさが混じっていた。
「い、いえ……こちらこそ。来てくださって、ありがとうございました。気をつけて帰ってください」
言いながら、自分の声が少し上ずったのが分かる。それでも、言葉を途中で切るよりはましだと思った。
ドアノブに手をかけた先輩が、外気を入れないように僅かに身体をずらし、隙間から夜の冷たい空気が流れ込む。ひやりとした風が足元を撫でていった。
扉がほとんど開いたところで、先輩の横顔が少しだけこちらを向いた。暗がりに溶けかけた輪郭の中で、唇だけがわずかに動く。
「……おやすみなさい」
聞こえるかどうかぎりぎりの、低い声。私は一瞬、返事が間に合わない。
扉が外側へ閉じていく音がして、その隙間に向かって、慌てて声を押し出した。
「おやすみなさい、先輩」
返ってくる声は、もうない。廊下の足音もすぐに聞こえなくなった。
ドアから手を離すと、部屋の中には、さっきまでと同じ照明と同じ家具があった。それなのに、空気だけが少し違っている。
南瓜と小米の匂いがまだ薄く残っていて、それが、仕事の道具や書類の気配と混ざり合い、この部屋を少しだけ「今日の部屋」にしていた。
私は深く息を吸ってから、ゆっくり吐いた。胸の奥に何が残っているのか、自分でもうまく言葉にできないまま、玄関の灯りを落とし、リビングへ戻った。
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