『魔法少女』
放課後の図書室は、サラサラと紙がめくられる音だけが響いていた。
夕陽が差し込んで、机の木目が淡く光っている。
その温かい景色の真ん中に座っていながら、私はずっと寒いところにいるみたいだった。
机の上には、二つのものが置かれている。
ひとつは、美奈が大切にしている猫のしおり。
白いレースが縁に縫われていて、真ん中に小さな黒猫が座っている。
昨日、うっかり飲み物をこぼした私を、美奈は怒らずに笑ってこう言った。
「明日返してくれればいいよ。
あんたが持っててくれるなら、なんか安心するし」
そんな嬉しいこと言わないでよ。
胸の奥がチクンとした。
もうひとつは、私の胸元にかかるガラス玉。
透き通っていて、色も匂いもないのに、そこに“重さ”だけがある。
光ったり、脈打ったり、まるで意思があるみたいに。
その脈動が、今日もまた強くなっていって——
私は机に額をつけたくなる。
「……もう嫌だよ」
小さく呟く。
返事はないけれど、ガラス玉はまるで私をせかすように煌めいた。
「ねぇ、今日こそは一緒に帰ろ?」
不意に背後から声がして、びくっと肩が跳ねた。
美奈だ。
柔らかい髪が夕陽に照らされて、金色に光っている。
笑ったときのくしゃっとした目。
私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるところ。
ぜんぶ可愛い。
そして、ぜんぶ私の“大事なもの”。
「ごめんね、今日も少しだけ用事があって」
言うと、美奈の笑顔がしゅんとしぼむ。
唇が小さく尖り、その表情すら可愛い。
「最近さ……私、ずっと寂しいんだけど」
冗談みたいに言うけど、瞳は少しだけ濡れている。
「そんな顔しないでよ……」
「じゃあ、一緒に帰って!」
子どものように私の袖を握る美奈の手は、温かくて柔らかくて。
この温度だけは忘れたくない。
でも、ガラス玉が脈打つ。
強く、急かすように。
私は笑って頷いたふりをして、胸の奥で泣いた。
——ねぇ、どうして私なの。
——魔法少女なんて、やめたいよ。
美奈と別れ、中庭に出た瞬間、空気が変わる。
風が止まり、空が少しだけ沈んだような色になる。
ガラス玉が熱を帯び、私の手を引くように震える。
「わかったよ……行くよ。行かなきゃいけないんでしょ」
そう呟いた瞬間、光が身体を包んだ。
髪が柔らかく揺れ、制服が蒼い戦闘服へと変わる。
毎回思う。
この変身の瞬間だけが、どうしようもなく孤独だ。
誰にも見られたくないし、
誰にも知られたくない。
「魔法少女なんて、もう……」
口に出した瞬間、胸がぎゅっと痛む。
怪物は、校舎裏の広場にいた。
黒い霧が渦を巻き、人の形をしているようで、していない。
弓を構えようとしても、手が震えた。
「やだよ……こんなの。怖いよ……」
怪物は答えず、ただこちらへ向かってきた。
私は跳んで避け、砂埃が舞う。
胸の奥で、あの感覚がまた広がる。
——記憶が削れていく感覚。
——大事なものがこぼれ落ちていく気配。
最近、美奈との会話の細部が “薄く” なっている。
昨日笑い合った場面を思い出そうとすると、
ぼやけて色のない写真みたいになる。
このままだと、いつか本当に——忘れてしまう。
「やめたい……やめたいよ……!」
泣き声のような叫びが漏れた。
怪物は容赦なく、また襲いかかってくる。
足がもつれ、地面に手をついた。
痛い。怖い。帰りたい。
それでも、逃げられない。
「なんで……私なんだろ……」
誰も答えないまま、怪物が影を伸ばし、私を飲み込もうとした。
その時だった。
「こっちだって思った!」
駆けてくる足音。
夕陽を背に、美奈が校舎裏に飛び込んできた。
息を切らせ、汗で額が光っている。
それなのに、目は強くまっすぐ私だけを見つめている。
「その姿……びっくりしたけど……でもわかるよ。
だって、あんたの走り方だもん」
どうしてそんな可愛いこと言うの。
胸がじんと熱くなる。
「一人で……こんな危ないことしてたの?」
美奈の声が震えている。
「ひとりで抱えなくていいよ……!」
涙が溜まっていく。
私の喉がぎゅっと締まって、声が震えた。
「守りたいの……美奈を……みんなを……
でも、もう限界で……
ほんとは、魔法少女なんて辞めたいよ……!」
吐き出した瞬間、膝が崩れた。
美奈が走ってきて、私を抱きしめる。
その腕は細いのに、まるで世界全部を包むみたいに温かかった。
「いいよ、やめたいって言っていいよ。
でも……消えないで。
私、あんたじゃなきゃだめなんだよ……」
そんな言葉、ずるいよ。
涙が止まらなくなるじゃん。
その時、怪物が凄まじい咆哮を上げた。
美奈を守るため、私は震える足で立ち上がる。
「怖い……でも、守りたい……!」
美奈が背中に小さく触れた。
「大丈夫。私がいるよ」
その言葉ひとつで、胸の天秤がガタンと動いた。
どんなにやめたいと思っても、
この子だけは絶対に失いたくない。
矢に光が集まり、私の涙を照らす。
「私が……私の大事なものを……守る!!」
叫びと同時に矢を放つ。
光が闇を裂き、怪物は霧散した。
静寂。
膝が崩れ、私は地面に座り込んだ。
胸が痛む。
たぶん、また何かを少し失った。
でも。
美奈の顔は、ちゃんと見える。
それだけで泣きそうになる。
変身が解け、制服姿に戻ると、美奈が肩にそっと手を置いた。
「ねぇ……今日は絶対、帰り道一緒だから」
「うん……うん」
美奈が笑う。
あの柔らかい、世界でいちばん安心する笑顔。
「明日からも、私そばにいるからね。
やめたいって思ってもいいし、怖いって言ってもいい。
その代わり……ひとりで抱えないでよ」
涙が、勝手にこぼれた。
私の手を、美奈がきゅっと握る。
その小さな手の温もりが、私の世界を強く繋ぎ止める。
ガラス玉が胸の中で柔らかく光る。
その光は、今までよりずっと静かに、優しく揺れていた。
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