第3話 小さな勝利
朝の空気は冷たく澄んでいるのに、どこか金属が擦れるような匂いが混じっていた。
辺境の冬が近い証拠だ。去年は、この季節に十数人が飢えで倒れたと聞いた。村人たちの表情がどこか強張って見えるのは、その記憶がまだ生々しく残っているからだろう。
播種まで、残り三週間。
アレンは村の外れにある試験区画で、土を見つめていた。
「……さて。今日は大掛かりになるぞ」
そう言いながら、アレンは畑の土を一掴みした。乾き、痩せ、握っても形を保たない。これでは種が泣く。
「アレン。わたし、手伝うね!」
リシアが両手を胸の前でぎゅっと握る。その横顔は明るいが、頬は心なしかこけている。
「頼む。……ただし無理はするなよ。消耗して倒れたら元も子もない」
「倒れないよ! ほら、今日の私は絶好調だから!」
「昨日は"絶好調"の五分後に転んでたが?」
「う……あれは、砂が悪かったんだよ!」
そんな掛け合いに、近くで区画を手入れしていたエルナが小さく笑った。笑う体力が残っているか不安だったが、まだ大丈夫らしい。
村の広場では、すでに何人かの村人が集まっていた。バルトが狩猟隊のメンバーと何やら相談し、ガレスが杖をついて遠くから見守っている。
「アレン、本当に土が良くなるのか?」
バルトが不安げに声をかけてきた。
「保証はできない。ただ、試す価値はある」
「……そうか」
バルトは拳を握った。彼は飢えで家族を二人失っていると聞いていた。
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◼︎拡張術・土壌改善
「じゃあ始める。距離を取ってくれ」
アレンは深く息を吸い、胸腔に魔力を流し込んだ。
拡張術は便利だが、"対象が大きいほど負荷も跳ね上がる"。前に石碑を相手に使った時は気絶寸前になった。畑全体ならなおさらだ。
(……まあ、やれないとは言ってない。やるとは言ってないけど)
掌を土に向けた瞬間、魔力が一気に吸い取られた。
強烈な倦怠が脳の裏側を走る。
魔力が土の中へ流れ込み、微生物の動きを強制的に活性化させ、栄養の偏りを均一化し、空気の通りを整え、水分保持力を改善する。
――本来なら何年もかけて良くするはずの土を、数時間で「まとも」に変える。
それが拡張術だ。
その瞬間――
視界が白く弾けた。
膝が沈み、土に手をつきかける。
「ア、アレン!?」
リシアが駆け寄ろうとする。
アレンは慌てて手を上げて制した。
「来るな。……これは想定の範囲内だ」
「その言い方が一番不安なんだけど!?」
「問題ない。予定通りだ」
苦しいのは本当だが、心配されると逆に意地でも平気なフリをしたくなる。
「本当に大丈夫なの? 顔、真っ青だよ?」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよ!」
リシアが泣きそうな顔で言う。
だが、アレンは黙って作業を続けた。
やがて土の色がわずかに濃くなり、手触りがふっくらと柔らかくなった。
「……すごい。全然違う」
エルナが目を見開き、土を撫でる。
「ほんとだ、なんかあったかい……いや、気のせい?」
「それは気のせいだ」
アレンが即答すると、リシアが顔をぷるぷるさせる。
「ええ!? じゃあ私の手があったかいだけ!?」
「そういうことになるな」
「むぅ……言い返せないの悔しい……」
このやり取りに、作業していた村人が少しだけ肩の力を抜いた。重たい空気が薄まり、希望が入り込む余地ができる。
ガレスが杖をついて近づいてきた。
「アレン……本当に土が変わった。わしの目にも分かる」
「まだ表面的な改善です。根本的な回復には時間がかかります」
「それでも、十分だ。お前たちがいなければ、この村は今年で終わっていた」
アレンは答えず、試験区画を見渡した。
まだ終わっていない。これは始まりに過ぎない。
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◼︎種の選別
改良した土に種を撒く――その前に、重大な問題が起きた。
アレンは倉庫に戻り、大きな桶に水を張った。そこに塩を溶かし、濃度を調整する。
「これで、良い種と悪い種が分かるの?」
リシアが覗き込む。
「ああ。良い種は重いから沈む。悪い種は軽いから浮く」
準備していた塩水に種を入れた瞬間、村人たちが凍りついた。
「……ほとんど浮いてるじゃねぇか」
バルトの声は低く、乾いていた。
バルトの拳が震え、桶の縁を白く握りしめた。
「……ふざけんな。去年と何も変わってねぇじゃねえか」
エルナの顔から血の気が引いていく。
「こんなに……少ししか残らないの……?」
浮いた種は"未熟、弱い、育てても収穫が低い"証拠。この光景は、村にとって"去年の悪夢の再来"だった。
リシアも不安げにアレンを見る。
求められたら反論したくなる癖のあるアレンだが、今回は落ち着いて口を開いた。
「――大丈夫だ。浮いている方が"異常"なんじゃない。去年が異常だったんだ」
「え? どういうこと?」
「説明する。種は、強いのと弱いのに差が激しい。環境が悪すぎると、強いやつしか残らず、結果として"浮く種ばかりになる"。今見ているのは、環境に潰された結果なんだよ」
「……つまり、これで普通ってことか?」
バルトの眉間の皺が少しだけ緩む。
「そうだ。だから沈んだ少数精鋭を育てる。そして……」
アレンは沈んだ種を手に取り、リシアとエルナに渡した。
「これだけ残ったってことは、逆に言えば"生き残る価値がある"ってことだ」
リシアは沈んだ種を見つめながら、小さく息を呑んだ。
「……沈んでよかった。……よかったよね?」
その声には、わずかな不安が滲んでいた。
「ああ。沈んだってことは、強い種だ」
アレンが答えると、リシアは少しだけ笑顔を取り戻した。
「うん……! やる。絶対成功させる!」
リシアは胸を張ったが、アレンは小さく唸る。
「いや、胸を張る方向間違ってる。種を落とすぞ」
「だ、だいじょうぶっ! 落としてないから!」
「落としたら一生言うぞ」
「そんな未来いらないよぉ!」
村人がくすっと笑う。
最終的に、使える種は全体の六割程度。当初の予想よりは良かったが、それでも不安は残る。
エルナが慎重に種を袋に戻しながら言った。
「これで……何とかなるかな」
「ギリギリだ。土壌改善が成功すれば、収穫量は七割まで回復できる」
「七割か……」
「それでも、去年よりは良い。去年は種の選別もしていなかった。土壌改善の試みもなかった。今年は少なくとも、やれることはやっている」
リシアは少し安心したように笑った。
「そっか。じゃあ、希望はあるんだね」
「希望はある。ただし、保証はできない」
「また反論してる……」
「事実だからな」
「もう!」
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◼︎試験区画の発芽
三日後。
アレンは試験区画に戻った。そして、目を見開いた。
慎重に蒔かれた種は、三日で小さな芽を出していた。見るからに去年より強く、茎も太い。
「……こんなの、何年ぶりだろう」
エルナが涙を堪えながらつぶやく。
「お、おお……まじで育つのか……」
バルトの声が震えている。
リシアは芽を見て、そっと微笑む。
「ねえアレン。これ、絶対にみんなを救えるよ」
「まだだ。油断するには早い」
アレンはあえて一歩引いた言い方をした。期待が高まりすぎると、芽が枯れた時の絶望が深まることを知っている。
「……そっか。でも、進んでるよね?」
「もちろん。確実に、な」
芽が揺れるたび、ほんの少しだけ未来も揺らいでいるように見えた。
その日の夕方、村の広場でアレンは村人たちに説明した。
拡張術による土壌改善、種の選別、段階的な畑の拡大計画。
最初は半信半疑だった村人たちも、試験区画の芽を見せると、表情が変わった。
「本当に……芽が出てる」
「これなら、今年は何とかなるかもしれない」
希望の光が、少しずつ広がっていく。
ガレスが杖をついて立ち上がった。
「アレン、リシア。お前たちには感謝する」
「まだ何も成し遂げていません」
「いや、お前たちは希望をくれた。それだけで十分だ」
エルナが子供たちを連れて前に出た。
「私たちも手伝います。できることは何でも」
バルトも拳を握った。
「俺も全力でサポートする」
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◼︎作業の終わりと、次の工程へ
「よし。今日はここまでだ。明日は肥料の配分と……あと、危険な問題がひとつある」
「危険?」
リシアが首を傾げる。
「森の奥で、魔獣の気配がする。肥えた土は匂いが強くなる。寄ってくる可能性は高い」
「……そっか。じゃあ、私が見張りする!」
「いや、お前はすぐ転――」
「転ばないよ!!」
勢いよく返されたので、アレンは思わず鼻で笑った。
だが、内心では嬉しかった。誰かが"守る"と言えるほど、この村に力が戻ってきた証だからだ。
「じゃあ、一緒に行くか」
「うん!」
その夜、アレンは一人で試験区画に戻った。
月明かりの中、小さな芽がそよ風に揺れている。
「……まだ始まったばかりだ」
呟きながら、アレンは拳を握った。
土壌改善は成功した。種の選別も終わった。だが、本当の戦いはこれからだ。
収穫まで三ヶ月。その間、村を守り抜く。
そして――
アレンは月を見上げた。
風が吹き、芽が揺れる。
村の影が、長く伸びている。
土は整った。種も選べた。
だが、村の蓄えは限界に近い。
冬を越すには、すべてを公平に分けなければならない。
次に来るのは──人と人の、争いだ。
(……それも、乗り越える)
アレンは小さく息をついた。
いつか、この王国に頼らずに生きていける場所を作る。
月が静かに村を照らしていた。
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2025/11/26改稿
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