永遠の青空へ──みよりんと天狼のふたつの空(本編)
はこみや
-1日目 飛行訓練の前日
明日、私は初めて単独で機体を操縦する。
教官の尼崎天狼さんが副操縦席に座るだけの、チェックフライトだ。格納庫の片隅で、小型プロペラ機「セッサナ172」の主翼の下にしゃがみ込み、ピトー管のカバーを外す。指先が少し震えている。寒いせいじゃない。緊張だ。「……みよりん、またそんな顔してる」後ろから、あの声がした。振り返ると、天狼さんがいつもの穏やかな笑みを浮かべて立っている。白い教官用のジャンパーが少し大きめで、肩が落ちている。二十七歳とは思えないほど幼い顔立ちなのに、瞳だけはどこか遠くを見ているような深さがあって、私はいつもそこに吸い込まれそうになる。「こんな大事な日の前は、もっと笑ってた方がいいよ」「……笑えてません。失敗したら、天狼さんの顔に泥を塗ることになります」私は素直に言った。天狼さんは苦笑して、私の横にしゃがみ込む。そして、私が今触っているピトー管を指で軽く叩いた。「泥は洗えば落ちる。命はそうはいかない。安全第一、だろ?」その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。安全第一——それが天狼さんの口癖だ。
でも私は知っている。去年、別の訓練生がスピンに入って墜落しそうになったとき、天狼さんは自分の体を張って機体を立て直した。左腕に今でも残る火傷の跡を、私は見たことがある。「……天狼さんは、いつも自分を後回しにします」小声で呟くと、天狼さんは少し困ったように目を伏せた。「教官だからな」それだけ言って、立ち上がる。私は黙ってプロペラの先端を撫でた。冷たい金属の感触が、手のひらに残る。(好きだよ)心の中で何度も繰り返した言葉。
教師と生徒の恋は禁止。校則にも明記されている。
たとえ両想いだとわかっていても、決して口に出せない。
天狼さんが私を見る目が、ただの教官のものじゃないことは、もう半年以上前から気づいていた。訓練後の格納庫で、二人きりになったとき、ふと触れそうで触れない距離。息が白く混じり合う冬の朝。全部、覚えている。「……明日、よろしくお願いします」私は背中を向けたまま言った。「ああ。任せとけ」天狼さんの声は、いつもより少し低かった。整備を終えて、飛行計画書にサインを入れる。
高度は八千フィート、経路は山間部の訓練空域。
天気が崩れる予報も出ていない。完璧な条件だ。それなのに。なぜか胸の奥が、ざわざわと鳴っている。(絶対に失敗できない)
(天狼さんを、失望させたくない)私は何度も自分に言い聞かせた。格納庫のシャッターが下りていく音が響く。
外はもう真っ暗だ。
明日の朝、私たちはあの小さな機体に乗って、空へ上がる。そのとき、私はまだ知らなかった。
これが、天狼さんと過ごす最後の、普通の一日になるなんて。「……おやすみなさい、天狼さん」誰にも聞こえない声で呟いて、私は寮への道を歩き出した。
冷たい夜風が頬を刺す。
胸の奥で、小さな炎のような想いが、静かに、でも確かに燃え続けていた。(明日、天狼さんと一緒に空を飛べる)
それだけで、震えが止まらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます