花園ロマンス
香月文恵
小さい野すみれ
第1話
二年越しの夢が叶った。
窓の外すぐ近くに咲き誇る桜に、千雪はそう心の中で告げた。――祝福してね、今日のためにずっと頑張ってきた私を。
「おめでとう!」
ふいに響いた甲高い声に、彼女はハッとおののいた。花々のうちの一輪が、本当に喋ったように思われて。……しかしそんなわけはなく、実際は彼女のルームメイトである帆波が後ろでおどけてみせただけなのであった。
「帆波」
「千雪、四月から私達も花園少女歌劇団の立派なメンバーだよ!」
満面の笑みで駆け寄り合う。――二人はここ二年間、歌劇学校で習練を積んできたのだが、今日正式に劇団に入ることが許された。それを知って、この有り余る喜びにはしゃいでいるのである。
「ここで落とされなくて本当によかったね」
「ねえ」
言葉の重みが今更ながら実感できて、思わず黙り込む。――付属の歌劇学校といっても、全員が入団できるわけではなく、今後劇団を支えていけるだけの能力があるか、十分健康であるかなどの審査にパスしなければならない。この二人やその他大勢の同期生達は、日頃の努力と元気さが認められたが、中には十人ほど、不合格のレッテルを貼られてしまった者達もあった。彼女達は涙を拭いつつ、ついさっき荷物をまとめてここを去って行った。その姿を思い出すと、自然口数も少なくなろうというもの……。
「――そういえばさ、千雪は芸名考えた?」
暫くして、雰囲気を変えようと帆波が明るく問う。千雪もその心意気がわかったので同じく明るい調子で答える。
「考えたよ。帆波は?」
「もち」
「何さ」
「芙蓉ジュン」
言いながら彼女は、持っていたメモ帳を開いて『芙蓉ジュン』と書きつけた。
「男役志望だから、凛々しくしようと思って。――ほら、あんたのも書いて」
シャーペンを渡されて、千雪もその下に署名(?)する。
『千草園葉』
「ちぐさ、そのはって読むの。どんな役柄もこなせるように、中性的な名前にしたんだ」
そう、あの人みたいに。――心の中でそう付け加える。
ちょうどその時、講堂に集合するようにというアナウンスが入ったので二人はいそいそと部屋を出て行った。
廊下を早足で進んでいく途中、綺羅星のごとき上級生の一団とすれ違った。洒落た服に身を包んで颯爽と歩き去る、憧れの彼女達にみとれて、思わず足を止める新米の少女達。
「前の方にいたの剣咲桜さんだった」
「隣にいたのは紅葉滝子サマ、私大ファンで……」
周りの同期生達が感激してひそひそ囁き合うのが千雪の耳にも入ってくる。――彼女の憧れの君は、まだやって来ない。
「ね、千雪、春日さんと目が合っちゃった、ウフフ……」
隣の帆波の声も聞こえていないかのように千雪は、続々とやって来るスター達の中にかの君がいないかどうか、そればかりに気を奪われている。
そして、そろそろ列が途切れてきた頃になって、その人は現れた。
(あっ)
一瞬喜びに輝きかけた千雪の顔は、しかしながらすぐに愕然としたまま固まってしまった。
彼女の憧れの君――若木松葉に、ぴたりと寄り添う小柄な美女の姿!
「睡蓮美花世さん……」
「なんて綺麗な人……」
「私達じゃ足元にも近寄れないお方……」
下級生達のうっとり夢みる視線の中を、二人は睦まじそうに歩いていく。目を見交わしたり手を握ったりしなくても、互いの気持ちがそこにあることを十分心得ているのが、傍目にも理解できるほどだった。――結局二人は、次の角を曲がるまで、下級生達に見送られたのである。
「……そういえば、睡蓮さんの隣の人、誰だっけ」
「花園の乙女が聞いて呆れるね、若木松葉さんじゃないのさ。よく老け役とかやってるけど」
「歌姫と老け役か。面白い取り合わせ」
我に返った者達は各々勝手なことを言いながら、講堂への道のりを急ぐ……。
「……千雪、私達も行かなきゃ」
帆波に肩を揺すられて、千雪は漸く振り向いた。
「……うん」
心ばかりか身体まで、その場にへたり込んでしまいそうだったが、何とかそれを奮い立たせて彼女は親友の後を追った。
(ああ、二年越しの夢が、たった数十秒で潰されるなんて!)
瞼には、かつての松葉の微笑みと、先程の松葉の面影が、交互に浮かび来るのだった。
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