第2話

 それは、予科生の頃の物語だった。

 とある休日に、千雪と帆波の二人は歌劇見物――勿論、花園少女歌劇――に出向いた。「今後の勉強のため」というのが建前であったが、本音は単純、「華やかな歌劇の世界に酔いたい」というものだった。


 立ち見のチケットとプログラムを買って、開演まであと数分というところに滑り込む二人。プログラムを読んでいる途中で場内が暗くなってしまったが、小品の劇を二つと、『コンスタンティーナ』というお伽レビューをすることだけは呑み込めた。


 ――幕がするすると上がり、ライトが灯る。最初は、西洋の娘達が一本の薔薇の木を囲んで交代に恋の歌を歌うというもの。二つ目は、日舞。何という演目だか、誰が何の役だか千雪は忘れてしまったが、若木松葉が小袖姿であだな女役をしていたことはよく覚えている。


(あの人、日舞が上手いんだなあ……)


 気がつけば夢心地で、遠くに霞む彼女の白塗りの顔を見つめていた千雪だった。


 ――休憩を挟んで、いよいよ『コンスタンティーナ』の始まり。スターの口上に続いて幕が開くと、そこには藍色の背景にビルや街灯のシルエットが規則正しく並んだ「夜」のセットが広がっている。そこに娘役スター扮する花売り娘がとぼとぼと歩み来る。



 花はいかが、香り高き花

 花はいかが、すがた清き花

 色あせぬ間に、お手に取って

 このコンスタンティーナの、花籠から



 そこまで歌って、花売り娘・コンスタンティーナは力尽きて倒れてしまう。舞台は暗くなり、そして次の瞬間には夢の世界――色鮮やかなお伽の国のセットが照らし出される。


 花に扮した娘役達に、コンスタンティーナは起き上がって目を見張る。花々は色とりどりの膨らんだスカートを翻しながら、くるくると踊る。そのうち、ひときわ目立つドレスをまとった娘が前に出て、ソプラノで歌い出した。



 ようこそ花の国へ、コンスタンティーナ

 あなたは私達の、お客様よ……



「あの子なの、新人の睡蓮美花世って」

「素敵ねえ、歌も上手いし美人だし、オーラが凄いのね」


 観客達のざわめきが、立ち見の千雪と帆波の耳にも入ってくる。二人とてこの新人スターのことは知っていた。まるで歌劇のために生まれてきたような生徒だというので、誰もがちやほやしていたのだから。けれどそれが単なるおべっかでなかったことが、今ソロを終えた彼女に嵐のような拍手と歓声が送られたことで証明された。


 花の国で盛大な歓迎を受けたコンスタンティーナだったが、敵である風の国の使者に連れ去られてしまう。舞台は寒冷色に早変わりし、灰色のひらひらした衣装の男役が数人、激しいダンスをする。そのうちの一人に、千雪は目が釘付けになった。


(さっきの、日舞の女役の人……若木松葉さんだ)


 白塗りの島田髷から、素肌色のファンデーション、オールバックになってはいても、その大柄な身体つきや優しげな顔立ちは変わりようがない。


(日舞もダンスもできて、男役も女役もこなすなんて、凄いなあ)


 その瞬間千雪は、コンスタンティーナ役のスターも、花の王女役の美花世も忘れて、ひたすらに若木松葉に視線を送り続けていた。


 ――その後花の国と風の国は、コンスタンティーナの機智と、それぞれの王女と王子の結婚によって和解が成立。コンスタンティーナも元気を取り戻して、再び元の世界で花を売る。閉幕とともに拍手の轟き。


 二人がすっかり夢心地で、同じ敷地内にある寄宿舎に戻る途中、奇しくも先程の出演者の一団とすれ違った。ちょうどこの二年後に、新入生が上級生の一団とすれ違うのと同じように。


 出演者達はまだ豪華な衣装のままで、どうやらそのまま楽屋に急ぐらしかった。千雪も帆波も何も話しかけられずに、壁際に立ち尽くしたまま、煌びやかな世界の余韻を味わっていた。


 目の前を通っていく人々は、二人にはてんで目もくれずに早足で過ぎ去るばかり。そうして何十人見送ったのか、最後に駆けてきたのが、「あなた達どうしたの」と、やっと二人に声をかけてくれたのだった。――紛れもなく若木松葉その人だった。


「あ、あの、さっきまで舞台を見学していて」

「これから寄宿舎に戻るところなんです」


 しどろもどろの二人の言葉に、微笑んで相槌を打つ松葉。濃くアイラインを引いた目が、笑うと人懐っこく細くなる。


「私もあなた達くらいの時、こっそり観に行ってたの。自分の目標がはっきりして、とてもためになったよ」

「はあ……」

「あなた達は、男役志望? それとも娘役?」


 松葉の問いに、帆波は男役、千雪は両方と答えた。


「両方か。私と同じだね」

(そりゃそうです。若木さんみたいになりたいんですから)


 千雪はそう言いたいのをぐっとこらえ、笑って会釈をした。


 ――松葉は、自分はまだ新人だから偉そうなことは言えないが、と前置いてから、二人に励ましの言葉をかけて「じゃあね」と去っていった。――二人もそれで我に返って、漸く帰路に着いたのだった。


 これが、千雪の努力の源となった、二年前の出来事である。よく気がついて、優しくて、謙虚で、才能もある松葉と同じ舞台に立つことを夢見て、またそんな彼女と親しくなりたい、話してみたいという可愛い(?)欲もあって、ここまできた。


 けれど、睡蓮美花世という大スターが相手ならば、舞台上はまだしも、プライベートで自分に優しい言葉を投げかけてくれることはないように思われた。


(きっと若木さんは二年前と同じく、優しくてフレンドリーな人に違いない。でも、睡蓮さんはどうだろう。独占欲の強い人だったら……嫉妬深い人だったら……私と若木さんが久し振りで話せる機会すらないかもしれない)


 散々思案するうち、千雪の心に、美花世への嫌悪感がむくむくと湧き上がっていくのだった。

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