第5話 森の守り手ズバニの日課

 朝霧がまだ森の地面に薄く漂っているころ、ファグルの森の守り手ズバニは、ゆっくりと目を覚ました。


 といっても、木が目を覚ますとは少し妙な表現だ。ズバニの場合、長い幹がぎしりと音を立て、枝の先が軽く震える。それが彼なりの「おはよう」だった。


「ふむ……今日も森は静かじゃな。」


 声は低く、木の中から響くようにくぐもっている。何百年と森を見守ってきたトレントの声は、それだけで森の空気が揺れるほど重い。


 ズバニの日課は決まっている。レストランに顔を出す前に“森の巡回”を行うのだ。


* * *


 トレントが歩くと、地面の苔がふわりと持ち上がり、根は生き物のように地を押し分けて進む。その歩みは遅いが、確実で、森の情景とぴたりと馴染んでいた。


「さて……北の泉から見て回るかの。」


 泉に向かうと、水面が穏やかに揺れていた。小さな妖精たちが水浴びをしていて、ズバニを見ると手を振る。


「おはよー、ズバニ!」


「うむ、おはよう。泉に濁りはないか?」


「ないよー。むしろ今日はきらきらしてる!」


「そうか、よきことじゃ。」


 ズバニは泉の水の“魔素の流れ”を確かめる。古木にしか分からない、森の脈動のようなものだ。今日の水は軽く、香りも良い。問題なし。


 次に南の茂みへ向かう。そこでは小さな獣たちが朝の餌探しに忙しい。


「おや、ウサカラども。争いはしておらんか。」


「ちょ、ズバニさん! 通り道ふさいでるー!」


 小さな獣たちはズバニの巨大な幹の足元をちょろちょろと駆け回る。ズバニは申し訳なさそうに体を横へずらす。


「すまぬ、歳をとると動きが鈍くてな。」


「昔から変わってないと思うけど!」


 森の連中は容赦がない。だがズバニは、そんな言葉もどこか嬉しそうに受け止めていた。


* * *


 そして最後に、森の中央――ドレグアのレストランの裏手にある“根の広場”を確かめる。


 ここは森の生命線のひとつで、強い魔力が地面から湧いている場所だ。


ズバニは地に手を触れ、ゆっくりと目を閉じた。


……

…………


数十秒ほどして、ようやく手を離す。


「ふむ、今日も森は健康体じゃ。」


その瞬間、風が木漏れ日のように柔らかく吹き抜け、ズバニの枝葉がさらりと揺れた。森が「ありがとう」と言っているような、そんな気配があった。


 ズバニは満足げに幹を鳴らし、重い体を動かしてレストランへ向かう。


 ちょうどそのころ、店では獣人の親子や妖精たちが朝食を求めてどんどん集まり始めていた。


「ふむ……そろそろ店に寄るか。」


 ズバニは立ち止まり、自分の体を見下ろす。身長はゆうに八メートルを越える巨体。このまま扉に近づけば、店ごと押し潰してしまうのは確実だ。


「また縮まねばならんのが、老体には少々こたえるわ。」


 ズバニは太い枝を額のあたりに添え、森の魔力をふっと吸い込む。すると、彼の体を包む樹皮が淡い緑光をまとい、静かに縮み始めた。


ぎし、ぎしぎしぎし……


 幹がしなり、枝葉がまとまり、根が体へと引き寄せられ、まるで大樹が一本の若木へと戻っていくようだった。


 数十秒後には、背丈はせいぜい二メートルほど。言うなれば、立派な“木の人型の老人”ほどの大きさで収まった。


「ふう……この縮小、若い頃はもっと楽だったんじゃがな。」


 そうぼやきながらも、どこか誇らしげに歩みを再開する。


 レストランの前に立つと、ズバニはしっかりと肩を回し、木の節穴でできた“顔”を軽く整えるように枝葉を整えた。


「さ、今日も美味いスープを頼むとするか。」


 きぃ、と扉を開く。


「お、ズバニ。遅かったな。」


 カウンターの奥で、ドレグアがいつものように鍋を振っていた。その声に、ズバニは根を椅子に絡ませながら席につく。


「森が平和でな。見回りをじっくりしておったわ。

 ……それと縮小に少し手間取った。」


「また体の伸びが悪いのか?」


「歳じゃ、歳。」


 ドレグアが鼻で笑い、スープを差し出す。


「ほら、飲め。森の魔素が多い日だから、縮小疲れに効く。」


 ズバニは深く頷き、器を受け取った。


「ふむ……今日の味は……若葉の香りじゃな。」


 森の守り手の穏やかな朝が、これでようやく完成した。

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