第4話

 竹本の通う塾は駅前にある。東栄ビルとゴシック体で書かれたビルだ。

 高校受験に失敗した分を塾では取り返さないといけないと、頭では分かっているが偏差値は芳しくない。

 ゾウのようにゆっくりだが、ゾウほど力はない、蟻に例えようにも、蟻ほど豆ではない、他の動物たちは命がかかってるから案外、努力してる。下等なんて言ってらんないなと思う。

 最低限やらなければならない事だけを流れる怠惰な生活の中にねじ込み、まるで助かる見込みのない延命処置を施している重病人のようだった。

 苦しいだけの徒労だと、心の片隅で鳴り続けていた。

 鏡のない古いエレベーターに乗り込む。ウィーンとわざとらしい音を立てて動く。この狭い中ほど苦痛な空間も少ない。パネルには細かく削れた筋が目につく。嫌なところを挙げればキリがない。塾は魔の城、大悪党にさえ思えて、虚しさに似た圧迫感を感じる。第一、塾などなければ受験戦争はもっと優しいのではないだろうか。

 今日は月曜日だから塾の便宜上友達の富岡は今日はいない。

 ほのかな安堵感と同時に、勉強中の気晴らしが何もなくて退屈で暇になると思えば気が重い。視界を一切横にずらさずに、いつもの自習スペースについた。

 過ぎて仕舞えばどうって事ない、現に今日の学校の事も碌に思い出せない。高越との会話も全然覚えていないし、覚えないと知っている。すぐ、すぐと言い聞かせる、すぐ終わると自分に言い聞かせていると認識してしまうと、さっきより気が重くなった。

 おでこのあたりの皮膚がゆっくりと地殻みたいに眉間に寄っていった。

 バックから取り出したのは、厚みだけでやる気を効果的に無くす分厚い問題集と、真っ青世界史、そして、黒色人種、白色人種、黄色人種の男女が手をつなぎ合って、お決まりの手を掲げるポーズのグローバルな英語。

 何度もため息を吐き、時計を確認しているだけで塾での時間はもったいなく過ぎてゆく。一体全体なんでこんなに時間が進むのが遅いのだろう。

 六時五十四分。五分早いけど、夕ご飯に決めた。コンビニで買った夕食のおにぎりの袋をわざとゆっくり、慎重に開封して噛んで飲み込む。紙みたいなのりとしょっぱい鮭。紙みたいなのりとツナとマヨネーズの混合物。いつもの組み合わせだ。特別美味しくないけれど不味くない。時間を潰すべく草食の恐竜みたいにゆっくり食べる。

 食べ終わってしまったら、ラストスパートだと言い聞かせ、今度は英語に取り組む。

 一問目から間違えた。

 haveじゃなくてhadだった。hadかと思ったが、haveにして、間違えた。惜しくて、悔しくてじんわりと泣きたくなった。人目がなかったら、問題集を投げ捨てて、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。怒りで集中力など持たない。

 二問目に無心で丸、三問目のバツに力が入り、血走る文字でasと書く。もう嫌だ。どこからともなく狙撃でもして殺して欲しい。

 心を静めよう、心を。

 竹本は自習室の机に突っ伏し、右手はキツく左の二の腕を握る。力の強さがこの世界にただ独りな私に対する慰めのようで、次第に足が地面に着いては離れていく感覚が湧いてきた。

 思考が次第にクリアになってゆく。胸の中に巻き上がったヘドロが再び底に戻って、上澄は透き通るほど落ち着けた。

 高校受験で第一志望に受からなかったときからこの手のミスに妙に涙もろくなった気がする。昔はもっと良かった、中学とか小学校とか、幼稚園なんかはもっと、もっと良かった、小学校くらいまでは確実に周りより賢かったのに。呪わしいような恨めしい気持ちも湧いてくる。ふと、高校受験に成功した人の顔を思い出した。沈んでいったものがまた湧き立った。地頭では勝っていたはずなのに、努力の差、というしかない。

 結局、自分には何もできないんだ、初めから、なんにもない人間なんだと心が窮屈だ。気休めに勉強なんて全部暗記じゃないかと思うと、暗記をしてこなかった過去の自分を呪いたくなる。所詮、勉強が出来ると言ったって本当は解き方の暗記なのだ。考える問題、新しい問題といえど、俗世でいう頭のいい人は、その計算方法を暗記しているだけなのだ。言い訳を練れば練るほど身動きがとりにくくなる。

 滴った毒に呼び起こされて、またヘドロが湧き立つループに入ってしまって、泣かずに耐えるだけで精一杯だ。

 竹本はグッと歯を食いしばりながら、時計を確認した。22時まであと20分。

 早く帰りたいけど、あまりに早く家に帰って早く塾を抜けたと、ママに文句を言われたくない。でも、これ以上塾には居られる気がしない。

 駅前で適当に時間を潰してから帰ればいい。

「自習だけに来てたんで、やりたいことは終わったからさっさと帰ろうかなぁと、明日は体育祭の練習があるらしいので……」

 頭の中の自分の白々しい声に嫌気がさす。脳内を覗かれている訳ではないのに他人に説明するように5度も6度も帰る理由を言い訳して、嘘の理由も解説をシミュレーションをしてから誰にも話しかけられないようにコソコソとエレベーターに向かった。もし乗り合わせた講師に何か言われたらと、言い訳をまたシミュレーションした、多分、七回目。いい加減自分の中の他人と会話するような言い訳をしたりするのをやめよう、と何度目になるかわからないことをまた自分に言った。

 無事一階に到着。東栄ビルの少し古い自動ドアが開いた。

 むわっとした空気を受けて、体が膨張する気がした。

 じめっとした暑さの原因はみんなが吐き出されてビルの間に溜まったため息なんだと思う。

 色々な音が混じり合って、大きくて丸くて飽和した膜が色々な方向から浸透してくるようだ。

 気分は悪かったけど初めて時間より早く帰ろうとしている。そこに、今には仄かな高揚感があった。

 東栄ビルの前の大通りとの間の花壇には、ちっちゃい花と単子葉類ということだけわかる草が生えていた。今日はその花壇を囲む煉瓦に人が腰掛けていた。

 竹本はその人と視線が交差してしまった。見てはいけない、合わせてはいけない気がしてふいっと視線を逸らしてから気がついた。月岡だ。

 月岡の服は当然、制服ではなかった。

 ダメージジーンズに黒くて長いTシャツだった。厚底の靴がはっきり見えて可愛いと思った。

 ジーンズのポケットから耳へ有線イヤホンが伸びていた。

 しっかり化粧してたし、いつも学校で一人な月岡の私服のイメージとは違ったが元々、プライベートを想像しにくいからイメージと違うというのは変な感覚だ。

 竹本は偏見から思っているらしかった。よく見ると少し顔がいい、小さくて高い鼻とか、光を反射するほどサラサラとした髪だとか、羨ましいなと思った。

 目があってしまったし、時間を少し潰さなくてはいけない。

 竹本は柄にもなく自ら話しかけていた。

「ねえ、月岡さんだよね」

「ん? ……竹本さんだっけ? どうしたのこんな所で」

 月岡の言い方は紙を数枚重ねたぐらい少しズレた世界を生きているような言い方だった。

「今。塾が終わって出てきたところ、月岡さんは?」

「そう、私は今人を待ってんの」

「こんな遅くに?」

「いつ誰を待とうが勝手でしょ」

「あぁ、何かごめん」

 竹本は普段人に自分から話しかけたりしない事と、月岡に速攻で話を終わらせられたのあって、心臓がバクバクした。

 背中に汗が滲み出る感覚があった。どうして話しかけたのか分からなかった。

「それよりさ、竹本さん、憂鬱そうな顔してたけど困りごと? 有料で話聞いてあげよっか?」

 怒っているのかと思ったが、今はもう愛嬌のある笑顔だった。

「困りごと?」

 こんなところでこの不登校に私の悩みをぶちまけて何かがわかるはずない、ただ有料分が小遣いになるだけだ。

「そう、困りごと、レンタル友達的な? 人の愚痴とか悩み聞くの好きなんだよ」

「一回いくらなの?」

「内容によるけど、今日は初回サービスで無料でもいいよ」

「じゃあ……なんで学校にこないの?」

 自分でも質問が口を滑り出て驚いた。

「僕に質問じゃなくて、君が自分のことを言うの」

 月岡の一人称が女なのに僕なのもハブられる原因だ、確実に。

「うん、私、正直、学校苦手で、月岡さんはなんでこないのかなって」

「いく意味がないからじゃないかな」

 まるで他人事、見上げながら喋っている月岡は愛嬌のある愛玩動物に似て見えた。

「でも、学費とかあるわけでしょ」

「また質問してる」

「じゃあ……今日はないかな」

「ふーん、ちょっと重かったし、300円で」

「そんな細かく持ってない」

 有料じゃないか、とツッコミを入れようかと思ったが口から出て来なかった。

「いくらあるの?」

「小銭は500円だけ」

「僕もお金はないから、500円で、200円分で僕のライン教えてあげる」

「まぁ、いいけど」

 ラインだけ繋いで、竹本は挨拶もそこそこに、逃げるように早足で離れた。クラスラインすら入ってない竹本にはライン交換さえ珍しい事だった。全身はじんわりと高揚感に熱されていた。


 

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