2  小火騒ぎ

 ハオが連れ込まれたのは、ケイの後宮だった。


 中央に皇后の宮が浮かび、その東西南北には玻璃ガラスの橋が渡されている。その先には四妃の宮があり、外郭には内側から順に、九嬪きゅうひん婕妤しょうよ、美人、才人、宝林ほうりん御女ごじょ采女さいじょと、序列ごとに棟や房室が分けられている。


 無論、最下級の皓に大した称号があるわけもなく、単に「下女」と呼ばれる。

 どの妃妾ひしょうも主にしていないので、自由度は高いが、死んでも憶えてくれる人がいない。


 事件があったのは徳妃の宮だった。

 極彩色の繚乱とした花園を望む、後宮で最も華やかな宮で、事件は起きた。


 小火騒ぎだ。

 建物の大多数が木で出来ている後宮では、火の禍が問題視される。ひとたび燃え上がれば、歯止めの効かぬほど拡がるからだ。


 殺戮道化師は采文サイウェンと名乗った。

 事件の捜査、犯人の逮捕、裁判、刑罰の執行をつかさどる、司裁しさいの官吏で、去勢はされていないらしかった。皇帝のちょくで、特別に後宮への出入りを許されている身らしい。


 皓くらいの下女になら、取り敢えず首斬り、ということをしても罪には問われない。

 今からの行動次第では、逝ってしまうこともあるだろう。というか、ある。


嫌疑人ようぎしゃは二人。ワン 月汐ユェシーひんと、君、シー ハオだ。事件直前に近くに居たからね」


 徳妃の宮の一郭にある倉庫は、例の小火騒ぎの現場だ。

 月汐嬪も訊問とりしらべを享けていたが、彼女が罰せられる確率は低いだろう。

 何故ならもう一人の嫌疑人が、替えのきく奴婢どれいだからである。


 皓と采文が着いたときには、別の宦官が、月汐嬪に訊問していた。


「月汐嬪は、そのときなにをなさっていましたか」


大路おおどおりこうがいを買った帰りに、いつも通っている捷徑ちかみちを通っていました。それが、この倉庫の傍だったのです」


 月汐嬪は想い出すように、目線を脳に向ける。瞳孔が寄りやすいのだろう、やや左だった。


「……そこの下女はどうだ」


「君はやらなくていいよ。この姑娘は僕が担当する。言葉はね、坦率すなおに享けとらない方がいいから」


 宦官は怪訝そうに首をかたぶける。頭が鈍いようだった。奇芸師てじなしゆえに学はないが、さとい皓は、口の端だけ微笑みながら、采文を見上げた。


(月汐嬪も嫌疑人だから、一挙手一投足まで目配せしろと言っているのか。いやあ、湾曲に物を言うのが巧いひとだなあ。まあでも、肝心の宦官はこれっぽちも解ってなかったっぽいけどな)


 倉庫の中はいたく油臭かった。

 証拠が焼失していないかと想ったが、小火騒ぎ程度ではそんなこともないだろう。


「君は何故、近くにいたんだい?」


「ここが、その日のタオ蔵匿処かくしばしょだったんですよ。けれど、油臭かったというか、煙臭かったというか。桃に何事なんごとかあってはならないので、別のところに変えたんですよ。本当、変えててよかった」


 皓は火元に目をやる。


「紙が焦げてますね」


「へえ、解るんだね。凄い」


 皓にとってはなんてことない。

 紙を燃やす、派手な機関しかけ奇芸てじなのうちだ。


「燃えたのは油ですね」


「灯籠に使われるあれか。けれど、随分と高価なものを使うね」


 油は採れるまで時間がかかり、かつ用途が広いので、後宮でも高値で取引されていた。

 皓のような下女に至っては、寝床に灯籠などない。陽が落ちれば、そこは際限のない常闇だ。


 砂を踏むような感触がした。

 灰が散っている。


「燃え殻ですかね」


 不意に見上げれば、倉庫は三方の棚に囲まれ手狭だ。

 この中にどれだけの物を詰め込んでいるのか。


(左がだいぶ狭いよな)



   *



 皓が総てを終えて倉庫から出ると、南天に上の弓張が浮かんでいた。

 殺戮道化師……もとい、采文が現れたと思えば、月は叢雲に消されていた。


「お疲れ。解けたかい?」


「これで私がお手上げです、なんて言ったら、今すぐにでも玉佩ぎょくはいで首を斬りますか。知ってますよ」


 采文は剣を佩していた。

 帝族でもない彼が帯剣していることには驚きだったが、彼はよく考えれば警護が仕事だ。万が一の嚇しのためにでも、腰に携えているのだろう。


 皓は一つ欠伸をする。


「死ぬ覚悟が整っているようだね」


「ええ。なにせ、解けましたから。技巧トリックが」


 雲が晴れ、皓々とした光が降り注いだ。


「……奇芸師てじなしは、実を視るのが職ですから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る