第一章

第1話 疫病神は、結婚する。


 ゆーらゆらと、掛時計の振り子が呑気に揺れている。

 この日、帝都電鉄は終日運休の報せが出ていた。なんでも近年稀にみる大雪につき、電鉄が街路を走れないのだという。帝都に居を構える道枝みちえだ邸も当然、雪害のあおりを受け、早朝より使用人らが雪かきに駆り出されて鼻水を垂らす羽目になったとかなんとか。


 桜子は女中たちに囲まれて身支度を整えられながら、かしましい彼女たちの世間話をぼんやりと流し聞いていた。


 ああ、ようやく今日という日が来た。

 道枝の家を出る――伊藤の家へと嫁ぐのだ。

 桜子は胸の奥の複雑な感情と向き合っていた。不安と期待が入り混じって、どちらが勝っているとも分からない。


「――桜子お嬢さま。お支度整いました」


 女中たちが億劫そうに桜子の前へ並ぶ。その態度はけして褒められたものではないが、桜子にとっては日常であった。見て見ぬふりをすることには慣れている。

 顔を上げると、彼女たちの背後に大正九年一月九日と印字された、日めくりの七曜表カレンダーが下がっているのが目に入った。


 ああ、うっかりしている。日付が昨日のままだ――桜子はぼんやりと背後にやっていた視線を女中たちに戻す。


「……ありがとうございます。もう下がって大丈夫ですから」


 すると端の女中が鼻で笑う。


「お嬢さまが嫁ぐ日に限ってこんなに雪が降るなんて。やっぱり方って違いますね」


 嘲りを隠そうともしない物言いに、別の女中が慌てて彼女を小突く。


「しっ、直接言わないの」


 彼女たちがそそくさと退出していく。桜子は無感情にそれを見送ると、窓の外へ目を向けた。

 磨り硝子ガラス戸越しに覗き見える庭園は、分厚い雪で覆われている。染みひとつない世界に息が詰まりそうだと思った。


 嫁入りは不安だが、ただひとつ確かなのは——この家での生活がようやく今日で終わるということだ。


 新しい生活が始められる。それも桜子を必要としてくれる旦那さまの横で。これからを考えるだけで、背筋がしゃんと伸びて体温が上がるような心地がした。


「桜子! 桜子はどこ!?」


 母屋から甲高い声が近づいてきた。この早足が近づいてきた時に良いことが起きたためしなど、一度もない。桜子は細く息を吐き出すと、覚悟を決めて「ここです」と声を上げた。


「ああ、やっと見つけた!」


 支度部屋へ顔を覗かせた継母は、桜子の晴れ姿をほとんど見ることなく、苛々いらいらと部屋の掛時計に目を向けた。


「聞きなさい。伊藤様がこちらへ人力の迎えを寄越してくれる予定だったけれど、この雪で来られなくなったそうよ。今し方連絡があったわ」

「そんな……」


 時計は既に十時を過ぎている。予定では昼に出立して夕暮れまでに伊藤の家へ着く予定であった。


「流石はね。最後までなんにも上手くいかないわ」


 継母はうんざりとした様子でため息をつき、吐き捨てるように続ける。


「あんたは今すぐ、一人で歩いて伊藤さまのお宅へ向かいなさい」

「この雪の中をひとりで、ですか?」


 この動きにくい着物で、たった一人で? いかに無謀であるか、継母とて理解しているだろうに。


「当たり前でしょう。厄介事しか持ち込まない癖に、こんなにちゃんと嫁に出してもらえるだなんて。相当恵まれているのよ。自覚はある?」

「そ、れは」

「それともわざわざ、あんたのためにうちから人力を出せっていうの? 今から歩けば日暮れまでには着けるんだから、早くなさいな」


 反論しようものなら、いつものように手近なものを投げつけられるのだろう。桜子は指先を握り合わせ、「分かりました」と従順に頭を下げてみせた。


「着いたらきちんとご挨拶なさいよ。伊藤さまは、あんたみたいな面倒事を抱えている娘でも大丈夫だって言ってくださる、お優しい方なんだから」


 継母は鼻を鳴らすと、母屋の方へと引き上げていった。桜子は途方に暮れて窓の外を覗く。


「私、この雪の中を歩けるかしら」


 女のかちで行くにしては遠すぎる。着く頃には全身ずぶ濡れになっているに違いない。

 ふと硝子に自身の姿が映り込んでいることに気づいた。


 痩せた顔に、目だけがまあるく大きい。美醜からいえば整った部類に入るのかもしれないが、笑顔がない分可愛げもへったくれもない。

 いくらこうして着飾ったところで、桜子が帝都でも良家に名を連ねる道枝家の長女だとは誰も思うまい。


 たいした嫁入り道具も持たされていないので、荷は風呂敷包み、ただひとつ。家財は追って伊藤の屋敷に送ると言っていたが期待はできないだろう。


「でも……大丈夫。今日はきっと、昨日よりいい日になるわ」


 桜子はひとつ大きく頷くと、いつものように自分に言い聞かせる。幼い頃から続けている、おまじないのようなものだ。


 腹を括るしかないかと、桜子が玄関で足袋を藁で包んでいると、背後から足音が近づいてきた。振り返ると、異母妹のみどりが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。


「お姉さま? 何をなさっているの?」


 女学校帰りの翠は、矢絣やすがり小袖こそで御納戸おなんど色のはかまを纏っていた。継母譲りの整った顔立ちに、すらりと伸びた手足。陶器のように白い肌はまるで西洋人形ビスクドールのよう。桜子にはいつだって、三つ下の彼女の方がずっと歳上のように見えていた。


「伊藤さまのお宅まで歩いて向かうことになって」

「まあ、その格好でこの雪の中を? お気の毒ですわねえ」


 翠はさして気にかけた様子もなく微笑む。巫師として家の期待を一身に背負う彼女は、桜子相手によく憂さ晴らしをしていた。今日もそうなのかもしれない――桜子は翠の顔が意地悪く歪んだのを見て、嫌な予感に震えた。


「せめて向こうで待っているのが、若いお婿さまなら励みにもなりますのにね」

「……え?」


 一瞬何を言われたのか分からなかった。

 翠は世間話でもするかのように続ける。


「伊藤さまってね、もうお祖父さまみたいな御歳なんですのよ。お母さまから聞きましたの」

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