第7話 宮廷魔術師と、曇ったレンズ

「『銀の牙』の実力、見せてもらおうかしら」


 その女性は、長い銀髪を揺らして傲然と言い放った。

 ソフィア・アークライト。

 王宮に仕える宮廷魔術師であり、今回の依頼の監視役としてパーティに同行することになった重要人物だ。

 彼女は青いローブを纏い、身長ほどもある長い杖を持っている。


「へいへい。お貴族様は後ろで見てな」


 エルザが不機嫌そうに吐き捨てる。

 現場叩き上げの冒険者であるエルザは、こういうエリートが嫌いだ。

 俺は二人の間に漂う険悪な空気を無視して、荷物のバランスを整える。

 今回の依頼は、森に出現した『影狼(シャドウウルフ)』の群れの討伐だ。素早い相手だが、宮廷魔術師の火力があれば楽勝のはずだ。


「出たぞ! 数が多い!」


 森の奥から、黒い毛並みの狼たちが飛び出してくる。

 十匹、いや二十匹か。

 影狼は残像を残して移動する。目で追うのは困難だ。


「ふん、数だけの雑魚ね。私が消し飛ばすわ」


 ソフィアが一歩前に出る。

 彼女は杖の先端に取り付けられた、掌ほどの大きさがある『照準用の水晶レンズ』を覗き込んだ。

 あれを通して対象を見ることで、魔力の射線を固定し、必中させる仕組みらしい。


「炎よ、穿て! 『ファイア・バレット』!」


 彼女の杖から、赤い火の弾が放たれる。

 高速で飛翔し、先頭の狼へ――。


 ドゴォン!


 爆音が響き、土が舞い上がる。

 だが、煙が晴れた後、そこには無傷の狼が立っていた。

 着弾点がズレている。狼の右一メートルほどの地面が抉れていた。


「……っ!? 外した?」


 ソフィアが目を見開く。

 狼たちが一斉に襲いかかってくる。


「何やってんだ! 貸せ!」


 エルザが前に飛び出し、狼の群れに斬り込んだ。

 俺も慌ててソフィアを庇う位置に移動する。

 ソフィアは動揺しながら、次々と魔法を放つ。


「『ウィンド・カッター』! 『アイス・ジャベリン』!」


 だが、当たらない。

 狙いは正確なはずなのに、発射された魔法が微妙にカーブしたり、明後日の方向に飛んでいく。

 結局、エルザが八面六臂の活躍で全ての狼を斬り伏せた。


「はぁ、はぁ……おい、魔術師様よぉ。どこ狙ってんだ? 目が悪いのか?」


 戦闘後、エルザが嫌味たっぷりに言った。

 ソフィアは顔を真っ赤にして反論する。


「う、うるさいわね! 今日は魔力の大気が乱れているのよ! 私の計算は完璧だったわ!」


 彼女は悔しそうに杖を抱きしめ、レンズを自分のローブの袖でゴシゴシと拭った。

 ……あ。

 俺は見てしまった。

 その行為が、彼女の不調の決定的な原因であることを。


 野営の準備中、俺はソフィアが手放した杖をこっそりと「鑑定」した。

 杖の先端にある照準レンズだ。


 【魔導照準レンズ(水晶製)】

 【品質:A】

 【透過率:65%(低下中)】

 【状態:重度の皮脂汚れ、微細な傷、コーティング剥離】

 【注記:光の屈折率が狂っており、照準が右下に15度ズレる】


 これだ。

 彼女はさっき、干し肉を食べた手でレンズを触っていた。

 その油がついたレンズを、粗い布地のローブで強く擦ったせいで、油膜が広がり、さらに細かな傷がついている。

 精密機器をタワシで洗うようなものだ。

 これでは、どんなに精密な計算をして魔法を放っても、出口でねじ曲がってしまう。


「……ソフィア様、お食事の準備ができました」

「ええ、いただくわ」


 ソフィアは不機嫌そうにスープを受け取り、一人で離れた場所に座った。

 プライドの高い彼女は、自分のミスが許せないのだろう。

 夜が更け、彼女がテントに入って眠ったのを確認してから、俺は動いた。


 彼女の杖は、テントの入り口に立てかけられている。

 俺は音もなく近づき、道具袋からメンテナンスセットを取り出す。

 使うのは『超極細繊維の布(クリーニングクロス)』と『ガラス用の洗浄液』だ。

 どちらも、この世界には存在しないレベルの代物だが、俺が錬金術の失敗作として捨てられていた素材から作り出したものだ。


 まずは洗浄液を一滴垂らす。

 こびりついた油膜と汚れを浮き上がらせる。

 そして、クロスで優しく、円を描くように拭き取る。

 力はいれない。

 表面の汚れだけを吸着させるイメージだ。


 キュッ。


 レンズが本来の輝きを取り戻していく。

 さらに、俺は『充填用の透明樹脂』を極少量だけ指に取り、レンズ表面の微細な傷に塗り込む。

 これで乱反射が消え、光が真っ直ぐに通るようになる。

 最後に、もう一度乾拭きをして仕上げる。


 【透過率:99%】

 【状態:極めて良好】

 【注記:誤差修正済み】


 完璧だ。

 ついでに、杖の接続部のネジが緩んでいたので締めておいた。

 これで振動によるブレもなくなる。

 俺は誰にも見られていないことを確認し、自分の寝袋に戻った。


 翌朝。

 再び影狼の群れが現れた。

 昨日の残党だ。しかも、今回は群れのリーダー格である大型の個体がいる。


「チッ、またかよ。おい魔術師、また外すなよ!」

「黙りなさい、野蛮人」


 ソフィアは冷たく言い放ち、杖を構えた。

 彼女はレンズを覗き込む。


「……あれ?」


 彼女が小さく呟いた。

 視界がクリアだ。

 昨日はモヤがかかったように見えていた景色が、今日は驚くほど鮮明に見える。

 遠くの狼の毛並み一本一本まで識別できるほどだ。


「(今日の魔力大気は澄んでいるのね……)」


 彼女はそう解釈し、自信満々に魔力を込めた。


「消えなさい。『ライトニング・ランス』!」


 雷の槍が放たれる。

 それは一直線に空気を引き裂き、回避行動を取ろうとしたリーダー狼の眉間を正確に貫いた。


 バチィッ!!


 一撃必殺。

 リーダーが倒れたことで、他の狼たちは恐慌状態に陥り、散り散りに逃げ出した。


「す、すげえ……」


 エルザが呆気に取られている。

 あの距離、しかも高速で動く相手の急所をピンポイントで。

 まぐれではない。完全な狙撃だ。


「ふふん、見た?」


 ソフィアは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 彼女は自分の杖を愛おしそうに撫でる。


「やっぱり私の計算は間違っていなかったわ。昨日は環境が悪かっただけよ」


 彼女はレンズがピカピカになっていることに気づいていない。

 いや、綺麗すぎて存在感がないため、逆に違和感を持っていないのだ。

 彼女は「自分の目が良くなった」あるいは「魔力の調子が良い」と思い込んでいる。


「行くわよ。この調子なら、森の奥まで掃討できるわ」


 ソフィアは上機嫌で歩き出す。

 その背中を見送りながら、俺はこっそりと洗浄液の瓶をポケットの奥に押し込んだ。

 彼女がまたあのレンズをローブで拭う前に、定期的にメンテナンスをする必要があるだろう。

 ……手間のかかるヒロインが増えたものだ。


 俺はリュックを背負い直し、彼女たちの後を追う。

 俺の仕事は増える一方だが、これでパーティの火力不足は解消された。

 俺の安全も、また一つ確保されたわけだ。

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