第3話 3年後

「ヤコブ牧師。起きてください。授業の時間ですよ。もう皆が集まっています。今日こそは授業をお願いします」


「トビアス。今日も代わりに授業を頼むよ。俺は寝るから」


トビアスは15才になった。今も兄たちからパン屋の仕事を押し付けられるが教会に行く時間は確保できるようになった。困ったことがあったらヤコブ牧師に相談をして解決の協力をしてくれているが、今はそのヤコブ牧師に子供たちや同年代の少年に教える授業を押し付けられている。


「昨日も夜通し物理学と化学の研究ですか。僕もできれば計算だけでも参加したいんですが」教会に復帰した僕を教師代理に任命してヤコブ牧師は自分の興味のある分野の研究に没頭するようになった。物理学と化学は当時のインテリがこぞって研究する分野だった。ヤコブ牧師は思い出さないと食事をしなくなり、部屋は汚れて書類でいっぱいになるほど没頭したので、一日一度の食事の準備と掃除、書類整理がトビアスの新しい仕事に追加された。


「お前さんは仕事がいっぱいで時間がないだろう。俺は自分の代わりに授業ができるヤツを育てた。そいつは思った以上に優秀で部屋の掃除や食事の世話までしてくれる。俺はこれを『ヤコブ式』と呼んでいる」最初はトビアスが「ヤコブ式」と名付けて自分だけの聖典のように活用してたが、それが本人にバレてからは、これも「ヤコブ式」、あれも「ヤコブ式」だ言って遠慮なくトビアスを使うようになった。


「僕の仕事を減らすのが「ヤコブ式」です。増やす人が言っちゃあいけないですよ。わかりました。僕の仕事を押し付ける第二のトビアスを教育するために授業に行ってきます」


「そうだ。それが『ヤコブ式』だ。生徒のために面白くて分かりやすい授業にしろよ」


そうはいいながらも、ヤコブ牧師はトビアスには新たにフランス語を教えたり、高等算術や物理学と化学の説明など特別な授業をしてくれた。本当は感謝を込めていくらでも授業を代行する気持ちではいる。本人に言うと調子にのるので言っていないが。それでも教会の掃除と食事の世話はやりすぎたと思っている。


「今日も面白い授業だったわ。さすがトビアスね。あたしは読み書きと計算ができるようになったわ。九九も覚えたし、いつでも卒業できるわね」アンナも僕の授業を喜んで受けてくれて、嬉しくなった僕もいい授業になるように考えながら荷車を押す仕事をしている。


「そうだね。アンナ。充分勉強したと思うよ。もっと勉強したいなら牧師さんに相談するといいよ」


「ちがうの。あたしはトビアスから教わりたいの。トビアスと一緒にいるのが楽しいの」アンナからの濁りのない透明な言葉がトビアスを癒してくれる。


「僕もアンナとずっと一緒にいたいよ。明日もいい授業ができるようにするよ」

ふたりは微笑みながら笑いあった。このままずっと同じ時間が過ぎていくと思っていた。


家に帰ると


家に帰ると何かいつもと違う雰囲気を感じたが仕事をしようと荷車を持つと、何年振りかに父親のルークから話しかけられた。

「トビアス。これからお前は徴兵されて首都へ行け。ピーターが徴兵に取られることになったから前が代わりに行って5年間の義務を果たすんだ。終わっても村には戻ってこなくてもいいからそのまま軍人にもなれ」


この頃、ネーデルランドの徴兵は抽選制だ。当選したものは5年間兵役に就く義務がある。18才~20才の男性が徴兵されていて、20才のピーターが当選したと父に言われた。しかし、跡継ぎを出したくない富豪や商家にはお金を出すことで別の人間に代替できることが法律で明文化されていた。

父のルークは代替兵のことを知っていて、トビアスを身代わりにしてピーターを守ろうと考えたようだ。


「・・・いや、どうして・・・僕は頑張っていたじゃないか」


「お前は遊んでばかりだろう。うちの仕事はピーターとリックが全部やっているじゃないか。お前は教会や工房、女たちと一緒になって遊んでばかりだ。本当に男たちが働いているのに気楽なもんだ」


ピーターやリックはトビアスに押し付けた仕事を自分の功績にしていた。わかってはいたが、父が僕を遊びまわっているだけと思っていることにショックを受けた。あれだけ仕事をしていたのにと叫びたい気持ちになったが、いまさら自分の言葉を叩きつけても届かないだろうと父の目を見てわかってしまった。


「わかったよ。だけど、ヤコブ神父とアンナに一言だけお別れを言いたいんだ。少しだけ時間を・・・」くれないかとお願いしようとしたが


「何を言っているんだ。そんな時間はない。お前はすぐに近くのマーストリヒトから馬車に乗るんだ。今度の募集で徴兵された人間を乗せて首都のアムステルダムまで馬車がでている。この馬車に遅れたら次の便は当分出ないそうだ。一度も村を出たことのないお前だけでアムステルダムにいけないだろ。荷物とパンを持ってすぐに出るんだ」心底あきれたようにルークは命令した。トビアスは最後にもう一度、胸に手を組んで祈るように願った。


「母さんにお別れを。最後に少しでも」お願いします。お願いしますと心で唱えた。


「時間がないと言っているだろう。母さんには俺から話しておく。お前が軍人になって務めることが親孝行になると思ってすぐに出発しろ。それと、向こうに行ったらずっとピーターと名乗るんだ。お前の『トビアス』という名前は取り上げる。もう名乗るなよ」

思いは届かず、祈りは断ち切られた。


まただ。大声を出して脅せば言うことを聞くと思い込んでいる。

ルークに言っても無駄。家では何も話せないと何も行動しなかった僕も悪かったのかもしれないがあまりにも無慈悲と思う。

その上、トビアスにビーターを名乗らせるのは代替兵の代金を出さずに本人としてごまかそうという魂胆のようだ。こんな国から一番遠い国境近くの村に確認にくる役人はいないだろうが、幼稚で稚拙なやり方に思える。「ヤコブ式」ならもっとうまく代替兵に・・・もっと上手に・・・いや、ヤコブ牧師本人がここにいて説得しても父は僕を追い出す。


トビアスは全てを諦めた。


僕は自分の部屋へ行って袋に荷物を入れた。荷物といっても着替えの他にはダーンさんにもらった彫刻刀、砥石と研ぎすぎてチビたナイフ。もらった定規、コップ、フォーク、水筒、火付け石くらいしかない。使っていたペラペラの掛布団も丸めて持っていくことにした。


いままで使えていたノコギリもハンマーも借り物だった。本当の僕の荷物は少ない。これが全部だ。僕が村を出たら、みんなの記憶にしかトビアスは残らない。トビアスの名前も奪われて、ありふれたピーターって名前になった僕はみんなの記憶と違う人間になるのかな。もう分からない。トビアスは疲れて考えるのも諦めた。


最後に持てるだけのパンを袋に入れてトビアスは旅立った。


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