蒸気仕掛けの歯車たち

田村まろ

第1話 はじまりの町

「君も溺れるといい」


それは告白するような命令するような言葉だった。

冬の乾いた空気と俺の耳だけがそれを聞いた。


「私は溺れ切った。水底から見上げた景色の美しさはヴァルハラにしか見えなかった。私は声を失った」


彼は陶然としていた。ヴァルハラを見上げるようにして瞳を潤ませる。


「こんなに戻りたいと思っているのに、私には許されていない。私の口内には私だけが知っているあの果実の甘さが残っている」


普段の明晰な彼しか知らないと狂ってしまったかと思うような異様な姿だった。


行きたい。


ふり絞る声がした。


「もう一度、あの国へ」


はじまりの村


「三人目は女の子が良かった」いつもの口癖を母が言い出した。

「僕が女に産まれていたら、兄貴たちが少しは優しくしてくれたかな」僕は母さんに聞いてみたが、答えは聞かなくても分かっていた。そんなわけはないって。


「トビアスは別の家の子供なんだよ。俺とリックは誇り高きケルト戦士の末裔なんだ。赤毛で体も大きいからな。お前みたいなチビは奴隷の子供なんじゃないか」

以前ケルト戦士ってどんなことしたの?って聞いたら「かっこいいんだよ」としか言わなかった長男のピーターが次男のリックに話しかけた。

「そうだな。トビアスは茶色の髪にグレーの瞳をして、俺たちのように赤毛で青い瞳をしていないから家族じゃないよ。そうだ、これからは粉ひきの仕事もお前がやれよ。風車小屋に持っていって石臼で曳いてもらうんだ。わかったな」


僕、トビアス・バッカ―は名前の通りにパン職人(bakker)の三男坊。

この村では跡継ぎの長男、スペアの次男、三男坊は養子に出されるか都会に働きに行くか、いつの間にかいなくなるかのどちらかで人間扱いをされていない。


「わかった。風車小屋に行ってくるよ」以前に水汲みと粉倉庫の掃除を断ったら馬乗りになって殴られてから、もう無駄な抵抗はしなくなった。殴られながら見上げると、リックが楽しそうに笑っていたからだ。


「ねぇ、なんで教会に来なくなったの?トビアスがこないとつまらないじゃない」アンナは村一番の器量よしと言われている村長の嫁の娘で、大きくなったら美人になるだろうと同年代の男の子は皆そう思っている。

「仕事が増えて教会で勉強をする時間がないんだよ、アンナ。僕だって勉強したいんだけどリックのせいでね」教会では牧師様から読み書きや算数、神学などを教えてくれる。トビアスは勉強が好きで成績も良く教会に行くことが大好きだった。

「トビアス。教会にこないのも寂しいけど、あなたに会えないのも寂しいのよ。分かるでしょ。あたしはあなたと勉強したいの」アンナとは時間があるときには共に復習をしたり、トビアスが分かりやすく授業の解説をしていた。なによりアンナの気持ちがとても嬉しかった。

「わかったよ。なんとか考えてみる」トビアスはアンナにも解決のために動き出した。


トビアスはなんとか作った時間で牧師さんに相談に来た。ヤコブ牧師は最近村に配属された若い男性で前任のおじいちゃん牧師と入れ替えでやってきた。

自国のネーデルランド語の読み書き以外にも隣国のドイツ語も堪能な俊英である。

「ドイツ語は文法も単語もネーデルランド語に似ている。勉強するコストが非常に低い言語だから役に立つ。覚えた方が得になる」と説得力のある説明をして教えてくれるのでトビアスは熱心に勉強するようになった。

「まあ、村のパン屋が近いとはいえドイツに行くこともないだろうけど。ドイツ人の客がきたら挨拶くらいできるといいな」

この国、この時代の庶民は生まれた村を出る人間はほとんどいない。隣の国にいくことはほとんどなかったが、得だからという説明が気に入ったトビアスはドイツ語の読み書きを勉強した。

村のおかみさん達の噂では、ヤコブ牧師は首都のアムステルダムで出世競争に負けてこんな僻地まで追いやられたと言われているがトビアスは最高の教師と思っている。


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