第16話 夜

 その夜、琴は『宿題』について考えていた。

 聖職者の証である袿を衣桁にかけ、襦袢姿になる。この襦袢も、柔らかくて着心地の良い、最高級のものだった。


 あのときのことを思い出す。

 確か、朝陽が名前で呼んでほしいと言ったあと、自分は呼ばせてください! と叫んだのだ。

 後になって考えてみると、ものすごいことをしてしまった。

 帝に向かって名前で呼び、しかも呼ばせてください、だ。


「うわぁ……」


 あまりの恥ずかしさに、琴は顔を両手で覆う。

 侍女が敷いてくれた真っ白い褥にぽふんと飛び込むと、おひさまのぽかぽかとした香りが鼻をくすぐった。

 柔らかい枕をぎゅっと抱きしめる。


「すごいことしちゃった。ほとんど初対面の朝陽さまに……」


 思い出せば思い出すほど恥ずかしくなる。

 枕を握る手に力がこもった。


「だから、将大さまと涼人さまはあんなに笑っていたんだ」


 しかも、琴と朝陽が良い仲だとも言っていた。

 その『良い仲』というのが、何を指しているのか。琴には、まったく見当がつかなかった。


「私は昔から天然だって言われるんだよね。もしかして……」


 首を傾げる琴の隣で、朝陽もきょとんとしていた。

 きっと、朝陽も琴と同じように全く気づかなかったのだ。

 ふと、織也の朝陽についての話を思い出した。

 似た者同士、そう言って笑っていたっけ。


(あっ、そう言えば)


 思い出した。

 幼い頃、祖父から聞いたことがある。


『東宮殿下は、完璧で何でもできる。しかし、可愛らしい欠点があるんだ』


 まさか──。

 その欠点がそうだとすれば。


「朝陽さまは天然なの……?」


 そこまでだった。

 睡魔が琴を襲い、夢の世界へ引きずり込んでいく。


(涼人さまからの宿題、完了……)


 琴は、久しぶりの安らかな眠りに落ちていった。


     *


 時を同じくして。

 朝陽は、残っていた執務をやっと終わらせたところだった。


「お疲れさまです、主上」


 織也は微笑む。


「あー、疲れた」

「執務を溜めていたのは主上ですからね」

「執務より聖職者たちといた方が楽しい」

「そりゃあ、執務が好きだなんて言う人は少ないですよ」

「先生は楽しそうだぞ」

「あの方は……例外です」


 くたっと文机に伸びた朝陽は、目だけを織也に向けた。

 乱れた衣は、一般的には「だらしがない」と非難される。しかし、朝陽にはそれすらも「美しさ」に替えてしまう力があった。


(そんなだらけた姿なのに、妙な色香があるんだよなぁ)


 織也にとって朝陽は自慢の乳兄弟だ。

 彼の美しさに改めて実感していると、朝陽が口を開いた。


「以前、先生に聞いてみたことがある。どうやったら執務が楽しくなりますかって」

「……聞いたんですね」

「あぁ。そうしたら、執務は楽しいものだと考えてやってみたらどうかと言われた」

「それはそうですね」

「だから実行してみた。ずっと笑って楽しいなぁって思いながらやった。結果、墨をこぼして畳を黒く染め、ついでに大臣の白髪も黒く染めてしまった」

「……っ」


 織也は口に手を当て、必死に笑いをこらえる。

 彼が笑っているのに気がつかないのか、朝陽は真面目に話を続けた。


「烏帽子のところだけ白髪が丸く浮き出ていておもしろかった。で、先生に怒られた。晴子さんにも怒られた」


 晴子は朝陽の乳母であり、織也の実母だ。

 朝陽を本気で怒ることができる唯一の女性である。


「やっぱり怒られたんですね」

「なぜ怒られたのかがわからない。白髪を気にしていた大臣だったから喜んでいたと話したら、余計怒られた」

「それはそのはずです」

「その日から、白髪の大臣が俺の執務室に行列を作っていた。先生が追い出すのに必死になっていておもしろかった」


 その光景を思い出したのか、朝陽はくすくす笑いながら見事な意匠が施された文鎮を弄び始めた。

 こんなほんわかしている殿上人たちで大丈夫なのかと、常々織也は心配になる。

 だが、このような空気感を作り出しているのは朝陽だ。それが居心地良いと言われているのだから、彼に惹かれている者は多くいるのだろう。


 こうして、いつもと同じ夜が過ぎていく。

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