第7話 聖職者
「罪人が聖職者などありえない! 主上、僕の方が素晴らしかったですよね? 僕こそが、聖琴師にふさわしいですよね!?」
義兄は、帝に詰め寄った。
瞬間、近衛兵たちが帝の前に立ちはだかった。
指一本も触れさせないように、義兄を三人がかりで抑え込む。
「帝の御体に触れませぬよう」
「うるさい! あれよりも、僕が聖職者にふさわしい!」
暴れる義兄。
和之は、はぁと深く溜息を吐く。
貴人たちも、あきれ返った目で義兄を蔑んでいた。
そのとき。
「頭が高い」
近衛兵たちの間から、音もなくすっと扇が現れた。
それは、義兄へ伸びていく。
「……帝さま」
帝の扇だった。
鋭い光を目に宿らせた帝は、義兄の額に扇の先を当てた。
「控えよ」
帝が告げた途端、義兄はわめき声をぱたりとやめた。
いや、強制的にやめさせられた。
義兄は、力を失ってその場に崩れ落ちる。ぺたんと座り込んだ義兄の前に、帝はゆっくりと立った。
まるで、何かの術を使ったかのような鮮やかさ。あの義兄を黙らせた帝に、琴は釘付けになる。
「確かに、そなたの筝は美しかった。それは認めよう」
「でしたら……!」
「だがな」
帝は、すっと義兄を見下ろした。
天井の吹き抜けから差し込んだ光が、帝を煌々と照らす。まるで、地に天の巫女が降り立ったかのような神聖さ。琴は、ごくりと息をのんだ。
「そなたの心は、美しくない」
帝は、ぱさっと扇を開いた。
口元を隠し、冷たい目で義兄を見つめる。
「そなたが愛しているのは『筝』ではない。聖職者という神職に就く『自分』を愛しているのだ。それが、音色に出ていた」
「で、ですが……!」
「言い訳は無用。そなたは聖職者にはなれない」
それだけ言うと、帝はくるりと踵を返した。
琴のもとへ近づき、目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「真珠を貸してくれるか?」
「も、もちろんです」
箱から取り出した真珠を、そっと帝に手渡す。
帝は「ありがとう」と礼を述べると、真珠を持って再び義兄のもとへ戻った。
「手を出せ」
「え……」
「主上の命に逆らいませぬように」
義兄を押さえつけていた近衛兵が、無理やり義兄の手を出させた。
両手を差し出した義兄へ、帝は真珠を掲げる。
「真珠は、帝と『聖職者』しか持つことが許されない。そなたが聖職者だと申すのならば、真珠に問うてみてはどうか」
帝は、義兄の手の上に真珠を乗せた。
しかし。
「な、なんだこれは!?」
「真珠が、浮いてる?」
琴は、信じがたい光景に思わず声を上げた。
義兄の手の上に置かれたはずの真珠は、ふわふわと宙に浮いていたのだ。
まるで、義兄には触らせないという意思を持って。
「琴。こちらに」
「は、はい」
呼び寄せられて、慌てて帝の近くへ行く。
宙に浮く真珠は、不思議な光景だった。
仕組みはどうなっているのだろうか。興味津々で眺めていると、「真珠を持て」と帝に指示された。
琴は、おそるおそる真珠に手を伸ばす。すると、真珠は噓のようにすっと琴の手に乗った。
真珠は、つやつやと美しく煌めく。なんだか真珠が喜んでいるような気がして、琴は思わず笑みを零した。
「真珠は、帝と聖職者のみ触れることを許すのだ。これで証明されたな。聖琴師は、琴だ」
「ぐっ」
「まだ、否定するのか?」
帝は、扇を閉じた。最高級の檜で作られた扇を、すっと義兄の方へ伸ばす。そして、その義兄の顎を、扇でゆっくりと上げた。
「見苦しいな。今日から、そなたの妹は聖琴師だ。彼女を罵るような発言は、巫女が許さぬ。心して過ごせ。良いな」
その威厳に満ちた声に、あの義兄でさえ反論することはできなかった。
義兄は帝を見上げ、ただ頷くことしかできない。
琴にとって大きな存在であった義兄は、帝の前では酷く小さな存在に見えた。これもまた、巫女の導きなのだろう。
琴は、真珠を持ったまま、ただ目の前の光景を眺めていた。
「琴」
ふと、名前を呼ばれる。
慌てて顔を上げると、そこには慈悲に満ちた笑みを浮かべる帝がいた。
「そなたを聖琴師として任ずる。この国のため、巫女のために精一杯尽くされよ」
こんな自分で良いのだろうか。
母を殺め、一族から迫害されている身。そんな罪人が、神職を賜わってよいのかと。
「良い」
帝が、琴の心の中を読んだかのように言った。
琴の前に跪き、真珠をそっと撫でる。
「巫女が決定した。それを信じよ。お前は大丈夫だ。立派にこの役目を果たすことができる」
強い声だった。
それでいて、言葉には一つひとつ優しさが込められていた。
強く、優しく、艶やかに。
美しい帝は、麗しい瞳で琴を見つめていた。
ちら、と隣の祖父を見る。
和之は、驚きを顔に見せながらも、柔らかく微笑んでいた。
そんな笑みを見て思う。自分を信じてくれている人を守りたい、と。こんな何もできない手だけれど、できることはしたい。そして、国のために音色を響かせたい。
筝で、人を幸せにする。その夢が叶うのは、ここだけしかないかもしれないのだから。
「……わたしは、宰相の孫、琴。巫女さまに仕え、主上とともにこの国をお守りしたく存じます」
真珠を、箱の中に戻す。
そして、両手を畳の上に置き、帝へ捧げる最高礼を示した。
決意を固めた手で、夢を逃がさないように。
礼をしたとき、ぽたりと何かが畳を濡らした。琴の瞳からは、大粒の涙が溢れていく。
「これからよろしく頼む」
顔を上げれば、帝が微笑んでいた。
天井から差し込む陽が、琴を優しく照らし出す。
まるで、天におわす巫女が祝福しているかのようだった。
*
聖琴師が決まった。
選定会を終了させた帝は、清涼殿の自室へ戻る。
「疲れた」
重たい衣、過度な装飾品。
どれも帝のとしての権威を表すものであるが、それはどこか堅苦しくて重い。
それらを脱ぎ捨てていると、背後から声をかけられた。
「お疲れのようですねぇ」
帝が過ごす場所に立ち入ることができる者は限られている。
その中でも、帝──朝陽──が最も信頼している従者。
選定会で箱を帝に手渡した、『織也』という者だ。
「織也か」
「織也ですよ」
にこにことした長身の従者は、襖の向こうから朝陽へ近づいてくる。
織也と朝陽は、同い年の乳兄弟だ。織也の母は、朝陽の乳母。厳しくはあったが、実の息子のように可愛がってくれたため、朝陽の信頼たる人物の一人であった。
織也は、武術に長けている。それでいて、何でも熟す手際の良い従者。朝陽の一番近くにいる護衛のようなものだった。
「ほらほら、脱ぎ捨てないでくださいよ。重いのはわかりますけどね」
織也は慎重に朝陽の衣を脱がせていく。
侍女がさっとやって来て、普段着用の衣を用意していく。脱がせた衣を侍女に渡し、織也は着替えを手伝う。
いつもの衣に戻った朝陽は「うん」と頷いた。
「やはり、この衣の方が良い。あの衣は、肩が重くて仕方がない」
「当たり前ですよ。民の前に出られるための衣なのですから」
織也は、茶を淹れながら苦笑する。
ぶつぶつと文句を言っている朝陽は、文机の前に座った。
豪華だけれど、洗練された意匠。そんな文机に、朝陽はくたりと突っ伏せた。
「疲れた」
「はいはい、分かっていますよ。あの男のせいでしょう?」
「あんな性根が腐った男は久しぶりだ。琴は、よく耐えてきたな」
「慣れとは、恐ろしいものですねぇ」
織也は、茶を淹れた湯呑みをことんと文机に置いた。
それを見た朝陽は起き上がると、湯気の立つ湯呑みを手にする。
「聖琴師となった故、あの家から出ることになる。そうすれば、幾分か過ごしやすくなるだろう」
「他の聖職者たちもいますからね。楽しく過ごされることを願っておりますよ」
「あぁ。愉快な者たちだからな」
流れるような所作で茶をすする朝陽。織也が「あっ」と声を上げた途端、「熱っ!」と顔をしかめた。
「ほらほら、熱いのは苦手なのにすぐ飲もうとするからそうなるんですよ」
「……忘れていた」
「猫舌なんですから」
「俺は人間だ。ネコではない」
「……お前も、愉快な仲間の一人だな」
織也が言葉を崩して笑う。
すると、朝陽もふっと吹き出した。
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