第2話
「おーい、おーい。」と大声を上げてもその声は寒々しい空間に消えていくだけだ。母の手紙を見てから私は混乱し、慌てて、ただ一人で取り乱していた。
(誰かこの地球上に生きている人はいないのか)
寝ていたベッドまで戻り、窓を覗き込むと地面は数メートル下に見えた。おそらくここは二階だった。広い病室からあの豪華絢爛な扉を開けて廊下に出ると一直線に伸びた廊下の右側に窓が等間隔で並び、太陽光を存分に室内に取り込んでいる。暖かな陽光を浴びた病院内は全体が温室のようだった。私は廊下を走った。走るしかなかった。時々ふらつきながら長い廊下を走るしかなかった。延々と続く長い廊下の突き当りに一階へ降りる階段を見つけた。廊下を端から端まで走り切った勢いで階段を駆け下りようとしたら、スリッパが脱げて転げ落ちそうになり肝を冷やした。母が用意したのかどうかわからないが薄ピンク色のスリッパが憎らしくて堪らず、脱げたスリッパを握りしめ、思い切り、近くの窓に向け投げつけたが、窓が割れるようなことはなく、乾いた音を立ててスリッパが床に落ちただけだった。着ていた白い病院着は生地が薄く、肌に貼り付き、噴出した汗が冷えて身震いした。ついさっきまで寝転んでいたベッドの横に衣装箪笥があったことを思い出し、ベッドまで戻った。衣装箪笥を開けると上段には長袖のシャツがきれいに畳んで敷き詰められており、真ん中の段には黄色や薄緑等の様々なスカートやワンピースが仕舞われている。どれも一度も腕を通したことのないような綺麗なものだった。私はできるだけシンプルなものを探し、ノーカラーの白いブラウスと、若竹色のプリーツの効いたロングスカートを選んだ。靴下は白いフリルのついたものしかなかったのでしかたなくそれを履いた。衣装箪笥の横に姿鏡があり、それを覗きこむと気持ちが少し落ち着いた。そこには古くからの一番身近な友人の姿が映っていたのだから。衣装箪笥一番下の段に黒いかわいらしい小さな革靴が置いてあった。それはあつらえ品のように私の足にフィットした。私は母の手紙を持って再び廊下に出た。再び階段のところまで来ると風のように私は階下へと降りた。前につんのめりそうになった瞬間に一階に着いた。ぴったりとした黒い革靴が脱げることはなかった。
一階にも病室があったが、二階とは異なり、扉の鍵が閉ざされた部屋がいくつかあり、そこに入ることはできなかった。鍵がかかっていない部屋を覗くと、皮張りの立派な椅子と巨大な机、その脇に何やら医学書が並べられた本棚がしつらえてあった。医者が使用していた部屋であるのは確かだった。もちろんそこにはかつていたはずの医師も看護婦もいない。それをわかっていながら私には大声を上げることしかできない。
「誰かいませんかー」と張り上げた声は変わらず虚空に消える。この繰り返しだ。ここには誰もいない。埒が明かないので、私はサナトリウムの外へ出た。外に出て驚いたのは、サナトリウムの外観だった。それはまるで均整のとれた石組みの上に丸太を組み合わせて立てたロッジのような建物であり、二階の窓からも見えていた景色は、外に出るとさらに美しい景色が広がっていた。遠くにはいくつもの山脈が連なっており、空は気持ち悪いほどに澄んでいる。振り返ると背後には槍のように鋭利なピークを持った山塊がサナトリウムの後ろに陣取っていた。改めて極めて急峻な場所にこの病院が建てられていることに感嘆のため息がこぼれた。数メートル先の崖の縁に木製の細長いベンチが置かれていた。私はそこに腰掛けると、無心にその景色を眺めた。山々はこんなにも美しく、駒草は可憐な花を咲かせており、よく見るとここは高原の花畑のようだった。こんなにも山並みは美しいのに、数日後には楽園のようなこの花畑もろとも地球上の生命は滅びるのだ。ただ一人残された私と共に。涙が頬を流れ落ちた。不意に弟の顔、そして母の顔、さらにはもう一人の男性の顔が脳裏に思い出された。思い出したその男の顔はかつて結婚を約束した男の顔だった。ああ、私は結婚を約束した人がいたのだった。サナトリウム内を走り回って、睡眠状態だった脳が活発化し、脳内の底に沈殿していた遥か昔の記憶がサルページされたのかもしれない。ただその婚約者らしき男の顔はぼんやりとしていて顔の輪郭を思いだすことはできず、脳内にはまだ霞がかかっている。しかし母の顔だけははっきりと思い出した。姿鏡に映った私の姿は脳内で再生された母の姿と奇妙な程に瓜二つだった。母は私のことを本当に愛していたのだろうか。自分に似た姿の過去の小さな自分を愛でていただけではなかったのか。その答えを母に直接聞くことはもうできない。大学進学のために私が家を出て、遠く離れた地で一人暮らしを始めると母の興味は私から離れていったように思う。これ幸いと私はこれまでに抑圧され鬱屈し続けていた歪な感情を放水中のダムの水の如く、発散し、大学生活を謳歌していたわけである。入学後、事故に遇うまでの三年間で付き合った彼氏は十人以上で、付き合った時期が重なっている時もあったかもしれない。実家で暮らしていた時には男性とお付き合いをするなんてことを想像すらしていなかったが、案外私は愛嬌のある顔だったのだろう。自分ではあまり気に入ってはいないけれど。その中で婚約者となる男性と出会った。婚約者は同じ大学の一学年上の人だった。婚約までしたのは、身重となった私の責任を取るつもりだったのかもしれないが、その当時の具体的な思い出はすっぽりと抜けてしまっている。初体験の恥じらいも、純情なお付き合いも、爛れた関係すらも、あの日々が新鮮で楽しかったことだけはよく覚えている。それでも婚約者の顔にはまだ靄がかかっており、はっきりと思い出すことはできないのだ。
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