母の残余
武良嶺峰
第1話
右前方に陰影が際立つ小さな房の集合体が急に現れた。その房の集合体は意識下で急増し、一瞬で意識全体へと爆発的に広がった。そして脳内一杯がその小さな房で満たされた時、脳内の意識だったものが、視野として蛍光灯のような綺麗な白色に変わり、急速に現実実をおびて近づいてきたかと思うと、すぐに強烈な寒気に襲われた。それは自分の歯音が絶え間なく耳に届く程、大きな音だった。私はそこでやっと自分が覚醒したことに気が付いた。これまでの人生で最も不快な目覚めだった。目を開け、眩しさを確認してやっと生きていることの実感が湧いてきた。ただ手を伸ばすも、その手は何も触れることはなかった。それは受肉という言葉が最もふさわしいと思える程の目覚めだった。初めに目に入ったのは高い天井と、そこにあしらわれたアールヌーボ―調の窓枠とステンドグラスの天窓だった。私はベットに横になっていた。驚く程に体が重い。体を起こすのに一分近くかかっただろうか。上体を持ちあげると、その先にはステンドグラスの天窓とは異なる格子状の巨大な窓が整然と並び、視界の左右に延々と私が寝ているものと同形のベッドがずらりと並んでいる。画一的なベッドと窓は二十メートル以上に渡って連なっており、視力の悪い私にはその壁の端まで見渡すことはできなかった。ここは病院なのだ。巨大な窓を見るとその先に分厚い雲海が広がり、その上の太陽は雲海を穏やかな橙に染めていた。時計が見つからなかったので朝焼けの靄なのか、それとも沈みゆく夕日の一瞬を切り取ったものなのかを判別する術はなかった。ここは病院で、私はそのベッドで寝ていたということしかわからない。しばらくその景色を眺めていると次第に明るくなり、雲海が霧消していったので朝焼けだったのだとわかった。恐る恐る両足をベッドの下に下ろす。足元にはフリルの付いた薄ピンク色の小さなスリッパが揃えて置いてあった。足先はまだ痺れている。スリッパに足を入れ、恐る恐る立ち上がる。太ももやふくらはぎだけではなく臀部にも力が入らないような感覚があった。やはり病院の天井は極めて高く、十メートル近くはあるように見えたが天井の縁はぼんやりするほど遠く、定かではない。再び足元に目を移すと正木張りに敷き詰められたフローリングの床が綺麗に磨き上げられており、病院であることを忘れさせた。立ち上がった視線の先、窓の外には鬱蒼とした針葉樹の山林が続いており、針葉樹の先にははるか遠くには頂部に雪を抱いた山領が連なっている。
(たぶん外はここよりもずっと寒いのだろう。私はなぜ病院で寝ていたのだろう…)
脳裏に様々な疑問が次々に浮かびあがっては、その答えを持たない私の頭上を寂しげに通り過ぎていった。何やら薄ら寒い気持ちになったが、それは覚醒してから何一つ物音が聞こえず、人の気配がしないからだとわかった。
「すみませーん、誰かいませんかー」と声を張り上げてみても、自分の声だけが広くがらんとした病院のワンフロアに響きわたるだけだった。どうにもならないので病院内を歩き回ってみたものの、誰にも出会うことはなかった。
(この病院は何のための施設なのだろう、なぜ誰も人がいないのか?)
病院内に一人きりというのは、あきらかに気味が悪い。廊下への出入り口には重厚な扉があり、それは病院には不釣り合いな程に上等にみえた。廊下に出ると扉の外側には巨大な閂があった。廊下に設置された磨きあげられた艶麗な装飾品や、壁に等間隔で取り付けられたガス灯などの内装が無人の空間をさらに不気味に染め上げている。先ほどまで寝ていたベッドに戻ると、日は完全に昇り、雲一つ無くなっていた。ふとベッドの横の小さな木製の洋服箪笥の上に薄黄色の便箋が置かれていることに気が付いた。目覚めた時には気が付かなかったものだった。手に取った便箋にはおもて面に【妙子へ】と書いてある。はっと過去の記憶が蘇った。その文字を見て私は自分が“妙子”だったのだとはっきりと思い出した。
『妙子へ
母です。おはよう。今この手紙を読んでいるということは、あなたは目が覚めたのですね。よかった。まずはあなたが無事に目を覚ますことができたことに祝言を伝えたいです。たった一人でこの山奥のサナトリウムのベッドで寝ていたことに驚き、不安に思っていると思います。妙子がどのようなタイミングで目を覚ましたのかお母さんには知る由もありません。ただあなたは自分が直面している現実を悲観せずに強く生き続けてください。それが一番伝えたいことです。この手紙をお母さんが書いているのは、あなたがあの事故に巻き込まれてから六年後のことです。そうです。あなたは六年前に交通事故に遇いました。それはひどい事故でした。無謀運転をしていた若者の自動車が大学へ向かって歩いているあなたへと衝突して来たのです。酒気帯び運転でした。その若者は傷一つなく無事でしたが、あなたは大怪我を負いました。不幸なことに衝突時にあなたは頭を強く打ち、意識不明の状態となり、その後六年間、目を覚ますことはありませんでした。私は深い悲しみに震えました。そしてその若者のことを決して許すことはできませんでした。事故後もあなたは息をして生きています。ただ決して目を覚ますことはありませんでした。今あなたがこの手紙を読んでいること、あなたが目を覚ましたことを母はとてもうれしく思っています。心の底から。でもお母さんはもう二度とあなたに会うことはできないのです。それはとても残念で悲しいことです。ごめんなさい。なぜならお母さんはもうこの地球にはいないから。どれだけ謝ってもあなたは許してはくれないでしょう。それでも目を覚ましたのだからあなたは強く生きてください。事故とは関係のないことですが、今からちょうど一年前に地球の遥か彼方、三光年先で超新星爆発が起きました。なんのことだか理解できないかもしれません。それは何の前触れもなかったことです。テレビではその話題しか放送しなくなり、外でご近所さんと話をしてもその話題にしかなりません。この知らせにより地球上の人類すべてが悲観に暮れました。それは爆発した超新星が発する電磁波の雨が地球上に降りかかり、あらゆる生命を死へと追いやるということがわかっているから。ごめんなさい。地球上でその雨を避けることはできません。強力な電磁波はいくら建物の中にいたとしても透過してしまいます。地球上に逃げ場はなかったのです。人類は地球の外へと移住することを選びました。一年で電磁波が地球へ到達し、人類は死滅します。どうやって死滅へと至るのかこの手紙では明言しません。ただ皆、消滅してしまうのです。お母さんを含め周囲の人は皆、船に乗って地球外へと脱出することになりました。ただこの短時間で人類すべてが地球外へ脱出するには時間もインフラも何もかもが足りませんでした。脱出できなかった人類は皆、自死を選び、そのためのマニュアルなるものも世間に流通し、よりスムーズな人類消滅へとつながりました。地球外へ脱出できない人はそのマニュアルに従って消えていったのです。ただ、あなたを殺すことなど私には絶対にできなかった。私があなたを殺してしまうという選択肢などなかった。だからごめんなさい。私の最後のわがままを許してください。お母さんは地球外にいるけれど、あなたはなんとしても地球上で少しでも長く生き続けてください。母より』
手紙を読み始めてから冷や汗なのかわからないがどろりとした体液が体中から噴出し、とめどなく吹き出し続けた。手はその体液で濡れ、手紙に大きなシミを作り、母の丸みを帯びた文字を滲ませた。大声で意味不明な罵詈雑言が口をついて出てきた。何か大声を上げずにはいられなかったのだ。ただその絶叫に似た大声を聞いてくれる相手はここには誰もいない。母は私にとんでもない爆弾を残していった。意識を取り戻した途端に既に死の超新星爆発の影がすぐそこまで近づいてきている。私は俄かに手紙の内容を信じることができなかった。母の顔を私は思い出せない。まだ意識が混濁しているだけのかもしれない。だけど母はそういう人だったということだけは思い出した。母は自己愛の強い人だった。貴族の子女の出だから、ずっと昔から変わらない母の性質だった。お嬢様の母はいつまでも若い娘のままで、その振舞いは実の娘の前でも決して変わることはなかった。母は私に安らかな死すらも与えてくれなかったのだ。次第にぼんやりとだが過去の記憶が思い出され初めてきた。記憶が戻ったところで直面している境遇がなにも変わることはないのが悔しかった。手紙には一年前の五月十日の日付が記されている。超新星爆発による電磁波の雨が地球に降り注ぐまで長く見積もってもあと十日。それが私に残された新しい寿命だった。
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