第3話 『嫁入り』

 足元の土がじわりと湿りはじめた頃だった。


 前を歩く男衆がふいに速度を落とし、列全体がゆっくりと沈黙した気配をまとった。


 ――視界の先に、赤黒く朽ちた鳥居が立っていた。


 朱色のはずの柱は、長年の風雨で色が抜け、苔が帯のように巻きついている。


 それでも形だけはしっかりと残っており、誰の目にもここが“神の門”であると分かった。


 「ここから先ぁなぁ、しんいき言うて……皆ここで眠っとらすんや。わしの親も、じいさま婆さまも……ほれ、よぉけおるで」


 村長が笑みを覗かせつつ、低い声で教えてくる。


 鳥居の下に差し掛かると、空気がひやりと肌を撫で、まるで境界線をまたいだような感覚がした。


 鳥居を抜けると、両脇の木々は一層高く、暗く、重々しくそびえていた。


 参道は細く、中央だけがかすかに白く踏み固められている。


 まるで数百年前の誰かが“嫁入り道”として整えた道が、そのまま時の流れに取り残されているようだった。


 参道の途中には、小ぶりな石灯籠がぽつぽつと並ぶ。


 その多くが傾き、苔に埋もれているが、一部にはろうそくが灯されており、淡い光が白無垢の棺と、その後ろを歩く人々を照らしている。


 風もないのに、灯が揺れた。


 チリ……ン……


 女たちの持つ鈴の音が、鳥の声も風の音も失った山中に、妙にはっきりと響き渡る。


 しばらく進むと、木々が急に途切れ、視界がぱっと開けた。


 そこには――湖面のように広い、白い霧をまとった池が広がっていた。


 池を囲むように、古びた木造の小さな祠がいくつも並び、


 その中央には、さらにもう一つの鳥居が立っていた。


 さきほどの鳥居よりも低く、形も古く、もはや支柱の一本は半ば朽ちかけている。


 しかし朽ちていながらも、その鳥居は池へ続く“正しき道”を指し示すように、確かな存在感でそこに佇んでいた。


「ほれ……着いたでぇ。ここがな、嫁取り様の池じゃ」


 村長の声は震えてはいなかったが、その背中はわずかに緊張しているように見えた。


 池は静かだった。


 ただの静けさではない。


 音という音をぜんぶ吸い込む“底”のような静けさだ。


 まるで、大きな生き物が獲物を待ち構えて、ぽっかりと口を開けているようにも見えた。


 村人たちが棺を囲むように立つと、先頭の男衆が棺を持ち上げ、ゆっくりと回転させた。


 その動作は、まるで花嫁を婚家の方角へ向け直す古い婚礼儀礼のようで、村人たちはいっせいに手を叩き、嬉しそうに声を上げた。


 「ほれ見でみろや! ええ嫁入りだべぇ!」


 「絵里ちゃん、神さまのとこさ行ぐんだべ、立派なこったな!」


 「ああ〜よぉ笑っとるべや、ほんにきれぇなこった……」


 笑い声の混じる中、棺桶は池のほとりへと運ばれていく。


 池の端には、土を盛り石を組んで作った簡素な火葬場があった。


 石の囲炉裏のような炉台の中央には薪が積まれ、脇には灰をさらう竹の箕、骨を拾う長い箸――まるで江戸の野焼き火葬そのままの姿だ。


 だが、その四方には白い紙垂を垂らした榊が立てられ、火葬でありながらどこか神事じみていた。


 棺が炉台に置かれると、村長が火打ち石を打ち、火種を薪に移した。


 ぱち、と火が走り、やがて炎が棺の底を舐め上げる。


 その瞬間、村人たちはいっせいに手を叩きだす。


 『嫁入りゃ神のもと〜

 水底(みなそこ)通(かよ)う花嫁どん〜

 炎(ほ)に照らされ開く道〜

 鈴鳴りゃ神さま笑(わ)らるる〜』


 ゆったりとした調べなのに、どこか胸をざわつかせる不気味な旋律だった。


 白い煙が立ちのぼり、夜明け前の薄闇と混ざる。


 「よぉ燃えでるな……よぉ燃えでる……」


 「ほれ見でみろや、ええ道開いだべぇ」


 「神さまも、よぉ喜っとらすべ……鈴鳴っとるべや」


 村人は皆、笑っていた。


 手拍子が揃い、鈴がシャンシャンと揺れる。


 まるで婚礼の余興のような和やかさすらあった。


 その輪の中で、辰雄も笑っていた。


 昨夜とは別人のような柔らかい表情で、涙を溜めながら、手を叩いて歌っている。


 「よかったなあ……絵里……ほんとうに、よかったなあ……」


 炎が高まり、棺が静かに崩れていく。


 村人たちは火の度合いを見ながら歌を変え、まるで儀式の段取りが体に染みついているようだった。





 『燃(も)えやれ 燃えやれ 嫁(よめ)ぎ火(び)よ

 神さま迎えの舟灯(ふなあか)りよ〜』


 やがて炎がおさまり、白う残った骨が、ほくほくと湯気を立てるように見えた。


 村人らは歌をやめ、今度は口々に祝いの声ば上げよった。


 「おめでとさぁー」


 「きれぇに焼げだなぁ」


 「よが門出だべぇ」


 両親は感極まって泣き崩れ、辰雄は嗚咽を漏らし、村人達は途切れることなく笑っていた。


 その異様な光景のまっ只中で、私はひとり、汗ばむほどの寒気を覚えた。


 骨は箸で丁寧に拾われ、ちいさな骨壺へ納められていく。


 白い布で包まれた骨壺は、池の縁――しめ縄で囲まれた禁足の水面へ運ばれた。


 「……この村の葬儀って、もしかして」


 私がそう言うと、村長がうなずいた。


 「……あぁ、散骨だべさ。昔っから、ここで死んだもんはみんな、この池さ沈める。村さゃ墓場もあっけど、形だけでな、先祖の骨はみんなここさあるんだわ。火葬した骨ぁ、壺ごと沈めでな……水の底ん神さまのとこさ嫁ぐんだべ――ここは神さまの嫁入り池だべさ」


 男衆が骨壺を抱え、池の浅瀬へ足を踏み入れる。


 水面はぞっとするほど静まり返り、鳥居の影だけが深い裂け目のように揺れていた。


 村人らは総立ちになり、誰ひとり息を漏らさず、その瞬間を待ち構えていた。


 ――ごぼり。


 骨壺が水を押しのけて沈む、低く、重たい音が響いた。


 一秒。


 二秒。


 沈んだ――その瞬間。


 「おめでとぉぉぉぉーーーーッ!!」



 怒鳴り声というより**叫喚(きょうかん)**に近い歓声が、池全体を揺らした。


 まるで誰かが合図でもしたように、一斉に。


 拍手が爆ぜた。


 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ――!!


 山々に跳ね返ってくるその音は、祝福ではなく狂乱の焚きつけだった。


 母親は泣き笑いの顔で両手を打ち鳴らし、父親は喉の奥で獣みたいに唸りながら、ぽとぽと涙を落とす。


 「えぇ……よかったなぁ!! ほんに、えぇ嫁入りだべぇ!! おめでどぉ! ほんまにおめでどぉ!」


 泣きながら、笑いながら、叫びながら。


 誰も彼も、狂ったように手を叩き続ける。


 そして――辰雄。


 彼は池へ向かって、膝から崩れ落ちた。


 肩を震わせ、全身で号泣しながら、ひきつった笑顔を貼り付けたまま。


 「絵里……! よかった……よかったけぇ……!

 えぇ嫁入りだ……! 最高だべ……! 神さまに……神さまに抱いてもらえて……ほんに、よかったなぁ……!」


 地面を叩きながら、まるで娘を嫁に出す父親か、あるいは、何かを失って信仰に縋(すが)りついた信者のように、泣き笑いを続けた。


 周囲の村人が辰雄を抱え起こし、背中をばんばん叩きながら


 「おめでとぉ」


 「おめでとぉてぇ」


 と声をかける。


 その光景は、祝福の皮を被った狂気の渦だった。


 私は思わず一歩、後ずさる。


 彼らの歓声と拍手は、もはや“人間の感情”ではなく、共同体が熱に浮かされた儀礼そのものに思えた。


 水面には静かに波紋が広がり、沈んだ骨壺のあたりだけ、黒い穴が開いたように見える。


 そして奇妙なことに――


 村人たちの歓声が最高潮に達したその時。


 湖面のずっと奥から、かすかに鈴の音がした。


 ――ちりん。


 それが祝福か、それとも呼び声か。


 私には、もう区別がつかなかった。


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