6 得体の知れない怖さ
真っ直ぐ家に帰るわけではないらしい。来た道とは違う道を歩く
両脇には色々な店がある。
足袋の形をした看板に、蝋燭に矢が突き刺さっている絵だけの看板、金文字が目を引く薬屋の立派な置き看板。工夫を凝らした看板に気を取られていると、丹弥に置いて行かれそうになる。
「欲しい絵具があるから、問屋に寄るぞ」
中に入ると、三十代後半か、四十代くらいの男が恵比須顔で座っていた。
「旦那、犬猫じゃ飽きたらず、ついに人を攫ってきたんですかい。こりゃ器量の良い子供を攫ってきたもんで」
「攫ったんじゃなくて拾ったんです」
軽口を叩く店の人に丹弥が言葉少なに返す。途端に店の人が憐れむような顔で丹弥を見た。
「旦那、捕まらねえうちに、親元に帰してあげたらどうです」
店の人は、丹弥が冗談ではなく、本当に攫ったのだと思ったらしい。このままだと、丹弥が咎人になるかもしれない。流れを変えねばと
「
「これはこれは、ご丁寧に。手前は亀岡屋の番頭、
五兵衛がぱっと満面の笑顔を主膳に向けた。
悪意のない笑顔だが、何故だか怖いと感じて体が強張った。目を合わせていると、じんわりと蝕まれていくような、得体の知れない静かな怖さを感じる。
「主膳、こいつ、怖いよ。なにか変だよ」
肩に乗っていた山囃子の訴えに、小さく頷きを返す。
「
何も気付いていない丹弥が五兵衛に話しかけた。おかげで五兵衛の顔が丹弥に向く。
丹弥に目を戻した五兵衛をそっと盗み見た。
下がり眉のせいか、気が弱そうに見える。怖さの原因は、少なくとも顔立ちのせいではないようだ。
「外で待っていて」
肩で震えている山囃子だけに聞こえるように呟く。山囃子は、そろそろと腕まで降りてから、地面を目掛けて跳んだ。
ぽてんと地面に落ちた山囃子が一度、主膳を不安そうに見上げる。だが、すぐに、たったか走って店から出て行った。
「
五兵衛が壁際で何かを書いていた男の人に声を掛ける。顔を上げた吉助は、五兵衛とそう変わらない年に見えた。右眉の眉頭の辺りにある大きな黒子が目立つ顔だ。
すぐに筆を置いて吉助が奥に消えて行った。
「初めて見る顔ですね」
「最近、入ったんです。
丹弥の呟きに朗らかな声で答えていた五兵衛が、急に真剣な顔になる。五兵衛が声を潜めて、さらに言葉を続けた。
「吉助は、小さいながらも自分の店を持っていたそうなんですよ。しかし不運にも、うちから暖簾分けした
「手代って
丹弥の言葉に、五兵衛が痛ましそうな顔で頷いた。
「うちが暖簾分けした庄蔵の店は繁盛して、吉助の店はあっと言う間に潰れちまったそうです。それを知った大旦那が憐れんで、吉助を雇い入れたんですよ」
五兵衛が、にんまりと大仰なまでの笑みを浮かべた。相変わらず怖く感じて、主膳はさっと顔を逸らす。
「大旦那は、たまに路頭に迷っている人を拾ってきますよね。とうとう、商売敵まで拾うとは。さすが人がいいと評判の亀岡屋さんだ」
「人がいいのは、大旦那の美質としてよく言われますねえ。けれども、よすぎるのも悪いと思うんですよ。手前は大旦那の尋常ではねえ善心を気に入っていますがね。ただ、過ぎたるは猶及ばざるが如し。たとえ善であっても、過度だと良くねえもんです。運命が中庸を保とうと、反対のものを引き寄せますからね」
不機嫌な顔をした吉助が、長手盆を持って戻ってきた。長手盆には、絵具が入った包み紙が小山になるくらい沢山、載っている。
丹弥を見れば、もう絵具を熟視していた。
「五兵衛さん、何か俺の悪口でも言っていたんですか」
「いやいや。吉助は様々な仕事を転々としてきたから色々できる、面白い男です、とね、話していたんだよ」
絵具の包み紙を手に取って考え込む丹弥の横で、主膳も長手盆に目を落とした。丹弥の部屋に散らばっていた絵具と同じ名前の物も、いくつか混じっている。
「旦那、今度は何を描くんですかい」
「妖を描こうと思っているんです」
「今まで草花や動物しか描いていなかった旦那が、妖を描くなんて珍しい。何にせよ、描ける絵が増えるのは、良いですね。妖の噂話もよく耳にしますから、題材に困ったら、いつでも聞いてくだせえ」
「五兵衛さんの元には色々な噂話が集まりますからね。頼りにしています」
丹弥は五兵衛と話しながらも、真剣に絵具を選んでいる。丹弥の邪魔をしてはいけない。主膳は一歩引いて、何とはなしに店内を見渡した。
店の奥の壁の中央にある、立派な柱が目に留まる。周りの柱と太さしか違わないのに、いやに目を引いた。
「
五兵衛に話しかけられた主膳は、思わず身構えた。
「何か、他の柱とは違って見えて。逆柱だったんですね」
「逆柱は火事を招くなんて言いますけどね、まだ火事が起きたことはねえんですよ」
しどろもどろに答える主膳を気にした風もなく、五兵衛は普通に接している。
五兵衛から感じる怖さの正体は、まだ、わからない。主膳は、目が合わないように、五兵衛の顔を見ないようにした。
「描きたくなってきた。主膳、一度、湯屋に寄ってから家に帰るぞ」
丹弥に呼びかけられて、ほっとした。店を出ようとする丹弥の傍に行く。
「湯屋って初めて聞くのですが、どういったところですか」
問いかけると、丹弥は何かを考えるように一度、上を見た。
「上方では銭湯と言うんだったか。違ったか」
「銭湯を江戸では湯屋と言うのですね。言葉も、やはり京とは違いますね」
丹弥に続いて店を出る前、振り返って五兵衛を見ようかと思った。だが、やはり怖さが勝って振り向けなかった。
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