第14話 狂信者の注文

第十四章 狂信者の注文



 二週間が過ぎた。


 セディック・クロウは、自らの隠れ家で苛立ちを募らせていた。


 ――女王が生きている。


 あの日、確かに女王は死んだはずだった。緑の服を着た少年が倒れ、女王も同じように倒れた。だが翌日、彼女は何事もなかったように公務へと復帰していたのだ。


「どういうことだ……」


 セディックは壁を拳で叩きつけた。


「あの服は、確実に殺すはずだったのに」


 報告によれば、女王には傷一つなかった。ただ一つ、奇妙な変化があった。近衛騎士団長ローザリン・アシュフォードが、以前よりさらに女王の側に張り付くようになったというのだ。


「まさか……あの女騎士が何かをしたのか」


 疑念を深めたセディックは、諜報員を放ち、女王の動向を監視させた。しかし暗殺の試みはすべて失敗に終わった。しかも、どの暗殺者もローザリンに阻まれていた。まるで、彼女が事前に計画を知っていたかのように。


「魔術か……? あの女騎士も魔術を使ったというのか」


 ならば、自分にもさらなる力が必要だ。


 今夜、仕立て屋で新たな服を受け取る予定だった。白と金で仕立てられた、完璧な“神の戦士”となるための服。

 それさえ手に入れば、すべてが変わる。自分は真に神に認められ、救われるのだ。


 セディックは黒いマントを翻し、夜の街へ出た。


 濃い霧が街を覆い、数メートル先すら霞んで見えない。ガス灯の明かりもぼんやりと滲んでいた。


 時計台の前で足を止める。鐘が十時を告げ、重く低い音が宙を震わせた。


 北へ五十歩、南へ三歩。鉄の杖を三度、地面に打ち鳴らす。

 ――合言葉。


 いつもの手順で結界が開き、路地が姿を現す。小道を抜けると、見慣れた大通りに小さな扉がぽつりと現れた。


「……仕立て屋」


 セディックは静かに扉を押し開けた。


 工房の中では、アーサー・グレイが作業台の前に立っていた。月光が栗色の髪に反射し、彼の姿を幻想的に照らしている。


「お待ちしておりました、セディック・クロウ様」


 アーサーは穏やかな微笑を浮かべる。


「服はできているのだな?」


「はい。こちらに」


 アーサーは大きな箱を開け、中身を静かに取り出した。


 白と金の衣装――。


 セディックは思わず息を飲んだ。


 純白の布地に金色の刺繍が施され、聖職者のローブを思わせる。しかしそれだけではない。どこか戦士のような力強さが宿っていた。胸元には金糸で十字架が描かれ、その周囲には複雑な幾何学模様が広がっている。


「……美しい」


「白は純潔を、金は神聖を象徴します。この服をまとう者は、完璧な神の戦士となるでしょう」


 セディックは服にそっと触れた。布地は驚くほど柔らかく、滑らかで、どこか温かさを帯びていた。まるで、命を宿しているかのように。


「これを着れば……私は救われるのか」


 問いに、アーサーは少し間をおいて答えた。


「あなたの“真の願い”が叶います」


「私の願いは明確だ。神に選ばれし戦士となること」


「本当に、それだけでしょうか」


 穏やかな声と優しい眼差し。その一言に、セディックの心が揺らぐ。


 ――まただ。この男はいつも、自分の心の奥底に触れようとする。


「それ以外に何があるというのだ」


「あなたが本当に求めているものは……“罪からの解放”です」


 胸の奥が強く締めつけられた。


 罪。

 幼い頃、組織で育てられ、多くの人間を手にかけた。今も“異端狩り”の名の下に、無実の者たちが犠牲になっている。


「私は……神に仕えている。それは罪などではない」


「そうですか? では――なぜ、夜ごと悪夢を見るのです?」


 セディックの呼吸が止まった。


 どうして、この男は知っている?

 幼い日の自分が泣きじゃくる夢を。

 緑の服を着た少年に責められる夢を。


「……お前はいったい何者だ」


「私はただの仕立て屋ですよ。人の願いを聞き、服を作るだけの者です」


「嘘をつくな。お前は……心を読んでいる」


「読んではいません。ただ――精霊たちの声を聞いているだけです」


「精霊……魔女めいた戯言を」


 嘲笑したつもりだったが、その声には勢いがなかった。


「着てみてください。そうすれば、あなたの願いは形になります」


 アーサーは白と金の服を差し出した。


 軽い。しかし、その軽さの向こうに――重い“何か”が潜んでいる気がした。


「この服を着たら……私はどうなる?」


「それは、あなた自身が決めることです」


 純白の布地、金色の刺繍、どこか天使の衣のような輝き。セディックはしばし見つめたまま黙っていた。


「いつ着ればいい」


「あなたが望む時に。ただし――一度着れば、後戻りはできません」


 セディックは箱を閉じ、抱えて扉へ向かう。


「セディック・クロウ様」


 振り返ると、アーサーが真剣な瞳で見つめていた。


「この服は……あなたを“救います”」


 セディックは空虚な笑みを浮かべた。


「救われるのなら、なおのことだ」


「ただし――救いの形は様々です。あなたが望む形と、違うこともあります」


 その言葉の意味を問うことなく、セディックは工房を後にした。


---


 扉が閉まり、アーサーはひとり窓際へ歩み寄った。遠ざかっていくセディックの背を静かに見送る。


 その時、裏口からエルドラが姿を現した。


「彼は……あの服を着るだろうね」


「ええ、間違いありません」


「そして――死ぬ」


 エルドラの言葉に、アーサーは首を横に振った。


「いいえ。彼は“殉教者”になります」


 エルドラは弟子をじっと見つめる。


「それは……死ぬのと同じではないのか」


「違います」アーサーは静かに言う。「殉教とは、ある種の“救い”なのです」


「お前は彼を救いたいのか? それとも殺したいのか」


 重い沈黙が落ちた。

 長い時間が過ぎたあと、アーサーは小さく呟くように答えた。


「僕は……ただ彼の願いを叶えるだけです」


「たとえ、それが死を意味しても?」


「たとえ、それが何を意味していても」


 エルドラは深く溜息をついた。


「いつか、お前はこの選択の重さに押し潰される日が来るだろう」


「……かもしれません」


 エルドラはアーサーの肩にそっと手を置いた。


「でも忘れるな。お前は“一人”ではない」


 その言葉に、アーサーは初めて表情を揺らし、師を見つめた。

 その目には、深い感謝と、言いようのない悲しみが宿っていた。


「ありがとうございます、師匠」


 エルドラは微笑み、ふっと姿を消す。


 アーサーは再び窓の外へ視線を戻し、静かに息を吐いた。

 セディック・クロウの運命は、すでに動き出している。


 白と金の服を身にまとう時、彼は自らの“真の願い”と向き合うことになる。そしてその瞬間――彼は選択を迫られる。


 生きるのか、死ぬのか。

 救いを受け入れるのか、拒絶するのか。


 決めるのは彼自身。

 アーサーにできるのは、ただ見守ることだけだった。


---


 その頃、セディックの隠れ家では、彼が白と金の服を凝視していた。


「……これを着れば、全てが変わる」


 声に強さはあったが、その奥に潜むのは不安だった。

 アーサーの言葉が耳から離れない。


 ――救済には、様々な形があります。


 その意味が、どうしても掴めなかった。


 セディックは布地に触れた。

 柔らかく、温かく――だが、その奥底に、冷たいものが確かに息づいていた。


 死の予感。


「馬鹿な……これは神の衣だ。死をもたらすはずがない」


 そう言いながらも、胸のざわつきは消えなかった。


 その夜、セディックは再び悪夢を見た。


---


 純白の光が広がる世界を歩いていた。

 どこまでも続く白の道。その先に、ひとりの男が立っていた。


 ――ファーザー・トーマス。


「セディック……」

 トーマスは悲しげに言った。「お前はどこへ行こうとしている」


「神のもとへ」


「それは本当に“神”のもとか?」


 トーマスはゆっくりと首を振った。


「お前が向かっているのは……“死”だ」


「死こそが救いだ」


「違う」


 トーマスは強い声で言い切った。


「死は“逃げ”だ」


 セディックは足を止めた。


「私は……逃げているのか……?」


「そうだ、セディック」

「お前は自分の罪から逃げ、過去から目を背けている」


「では……どうすればいい」


「向き合うんだ」

 トーマスは優しい声で言う。「罪と。そして――許しを求めるのだ」


「許し……? 誰が私を許すというのだ」


「神だ。そして……お前自身だ」


---


 セディックは夢から跳ね起きた。

 全身汗まみれで、心臓は激しく脈打っている。


「夢だ……ただの夢だ……」


 しかし、トーマスの言葉は消えなかった。


 ――自分自身を、許せ。


 その言葉が胸の奥に深く刺さっていた。


 視線を向けると、白と金の服が月光に照らされ、淡く輝いていた。


 これを着れば、答えが出るのだろうか。

 自分は救われるのか。

 それとも――。


「もう……考えるのはやめだ」


 セディックは立ち上がった。


「明日、この服を着る」


 そしてすべてを神に委ねる。

 それだけが、自分に残された唯一の道だと信じて。


---


 その頃、王宮では、女王アウレリアが窓辺で夜空を仰いでいた。

 星々の光は静かに瞬きながら、どこか不吉な暗がりを孕んでいる。


「セディック・クロウが……動き出した」


 宰相からの知らせが頭をよぎる。

 セディックは何か重大な計画を進めている。そしてそこには――例の魔術の服が関わっている。


「仕立て屋……あなたはいったい、何を企んでいるのです」


 女王は祖母の日記を思い出した。


 ――願いを叶える仕立て屋。

 ただし、その願いがどんな形で叶うかは分からない。


「もし……セディックの願いが“私の死”だとしたら」


 ならば、再び暗殺が仕掛けられるだろう。

 だがローザリンがいれば――守られる。


「ローザリン……あなたに、あまりにも多くを背負わせてしまっていますね」


 扉がノックされた。


「入りなさい」


 女王が言うと、ローザリンが姿を見せた。

 その顔には、蓄積した疲労が色濃く表れていた。


「陛下。巡回を終えました」


「ご苦労さまです。今日は……もう休んでください」


「いいえ、まだやるべきことが――」


「ローザリン」


 女王は声を強めた。


「あなたは“休まなければなりません”」


 ローザリンは一瞬ためらったが、やがて静かに頭を下げた。


「……承知しました」


 部屋を出ようとしたその時、女王が呼び止める。


「ローザリン」


「はい」


「ありがとう」

 女王は、心からの声で言った。


「あなたがいてくれて……本当に」


 ローザリンは微笑んだ。


「陛下こそ……私の生きる意味です」


 そう告げて、静かに部屋を後にした。


 ひとり残った女王は再び夜空を見上げる。


 運命の歯車は、最後の回転を始めていた。


 すべての願いが、やがて一つの結末へと収束しようとしている。

 そしてその結末は――もう目前に迫っていた。


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