第12話 騎士の決意

第十二章 騎士の決意


女王の崩御から三日が過ぎていた。


王宮は深い喪に包まれている。廊下には黒布が垂れ下がり、歩く者たちは皆、沈痛な面差しで足音すら控えるようだった。葬儀の準備が静かに進められ、国中から弔問の使者が次々と訪れていた。


ローザリン・アシュフォードは自室に籠もっていた。


閉ざされたカーテンのせいで部屋は薄闇に沈み、机の上には女王の執務室から持ち出した一冊の日記が置かれている。


祖母エレノアの日記だった。


この三日間、彼女は何度もそのページを繰り返し読んだ。紙は指の跡で擦り切れ、インクの文字はうっすらと滲んでいた。


「願いを叶える仕立て屋。精霊の息吹を縫い込んだ服。真の願いを叶える力――」


ローザリンはその一節を、かすかな声で読み上げた。


続けて、結界の道順が記されたページを開く。そこだけ筆致が異なっており、女王自身が書き加えたものだとすぐに分かった。


「時計台の見える場所から、北に五十歩、南に三歩……」


ローザリンは静かに日記を閉じる。


――決めていた。

今夜、その仕立て屋を訪ねる。

そして、女王を生き返らせる服を注文する。


できるかどうかは分からない。

だが、試さなければ一生後悔する。


窓の外では夕暮れが迫り、橙色の光が雲を染めていた。夜はもうすぐそこまで来ている。


ローザリンは立ち上がり、鏡の前に歩み寄った。


黒一色の喪服が映る。騎士としての正装ではなく、一人の女性としての装いだ。それでも腰には剣を佩いていた。それだけは、どうしても手放せなかった。


柄にそっと触れる。冷たく硬い感触が、長い時を共にした記憶を呼び起こす。


「……父上」


彼女は小さく呟いた。


「私は、誓いを破りました」


女王を守る。それは父と交わした、たった一つの約束だった。

だが守れなかった。


「どうか……許してください」


返事が返ってくるはずもなく、静かな空気だけがローザリンを包んだ。


彼女は日記を手に取り、部屋を後にした。


廊下を進むあいだ、数人の騎士とすれ違った。

彼らは黙礼し、声をかけようと口を開きかけたが、ローザリンの気配に気づいたのか、そっと口をつぐんだ。

今は誰とも言葉を交わす気になれなかった。


王宮の外へ出ると、秋の夜特有の濃い霧が立ち込めていた。

ガス灯の光が霧の粒に反射し、世界を淡い金色の靄で包んでいる。

その幻想めいた光景の中へ、ローザリンは迷いなく歩き出した。


時計台へ向かう道は何度も巡回してきた場所だ。

だが今夜の景色はまるで別世界のようだった。

霧のせいだけではなく、心の状態が、すべての輪郭を変えてしまっている。


やがて時計台に辿り着く。

ちょうどそのとき、鐘が九度鳴った。

重く沈んだ音が、まるで弔いの響きのように胸へ落ちる。


ローザリンは深く息を吸い込み、日記を開いた。


「時計台の見える場所から、北に五十歩……」


星の位置を確かめ、北へ向く。


一歩、二歩、三歩――

石畳を踏む靴音だけが、静まり返った夜にぽつりぽつりと響いた。


十歩、二十歩、三十歩。

歩を進めるたび、鼓動が速まっていく。

本当にこんな単純な道順で辿り着けるのだろうか。

だが、女王が信じたのなら、自分も信じなければならない。


四十歩、五十歩。


ローザリンは立ち止まり、日記の文を再確認した。


「……次は、南に三歩」


踵を返し、来た道を三歩戻る。


続く指示は――


「鉄の杖を三度鳴らす」


腰の剣を抜く。

鉄の刃なら代わりになるはずだ。


彼女は剣先を石畳に打ちつけた。


カン。


カン。


カン。


澄んだ金属音が霧の中に吸い込まれていく。


変化は、ない――ように見えた。


しかし、その瞬間。

視界の端に、見覚えのない路地が“現れた”。


さっきまでなかったはずの路地。

狭く、暗い、湿った石造りの通路。


ローザリンは一切ためらわなかった。

騎士として、恐怖に屈することなどない。

剣を構え、路地へ足を踏み入れた。


壁には湿気がこびりつき、苔が指に冷たく触れた。

触れながら慎重に歩くと、路地はすぐに行き止まりとなる。


その突き当たりの壁に、一枚の紙が貼られていた。


「ポプリの好みは」


ローザリンは日記を開き、答えの記された一節を探した。


「……ぶどうの種とローズマリー。不機嫌には温めたミルクの香り。」


彼女ははっきりとした声で答えた。


その瞬間、世界が揺れた。


足元がふらつき、壁に手をつく。

めまいのような感覚が一瞬だけ身体を包んだが、すぐにおさまった。


再び顔を上げると――

行き止まりだった場所の向こうに、小さな道が現れている。


ローザリンは迷わず進んだ。


古びた石の通路は、次第に整った煉瓦造りへと変わり、

やがて見慣れた大通りへと繋がった。


しかし、そこには今まで存在を認識したことのない扉があった。


濃い茶色の木製の扉。

真鍮のノブには、精巧な装飾が施されている。

扉の上には、たった一言。


「仕立て屋」


ローザリンは剣を鞘に納め、深く息を整えた。


そして――

扉を押し開けた。


扉の内側から、柔らかな温かな光があふれ出してきた。

蝋燭の明かりが揺れ、ほのかに木材と染料の匂いが漂う。


ローザリンは工房へ足を踏み入れた。


内部は驚くほど広く、天井は高かった。

壁際には色とりどりの布地が山のように積まれ、

作業台には針や糸が整然と並んでいる。

どれも手入れが行き届き、長く使われてきたことが一目で分かった。


窓辺にはひとりの人影があった。


月光を背に、ゆったりとした動きでこちらを振り向く。


その姿を見た瞬間、ローザリンは息を呑んだ。


若い男性だった。

柔らかな栗色の髪、透き通るように白い肌、長くしなやかな指。

そして、どこか人ならざる静けさを宿した、優しい眼差し。


それは美しい、という言葉だけでは足りなかった。

彼の存在そのものが、静かで神秘的な気配をまとっていた。


「お待ちしておりました。」


男性は穏やかに微笑んだ。


「ローザリン・アシュフォード様。」


ローザリンは目を見開く。


「どうして……私の名を?」


「あなたの願いを、精霊たちが運んでくれました。」


その言葉に、ローザリンは無意識に警戒を強める。

精霊。魔術。――やはり、この男はただの仕立て屋ではない。


「あなたが、噂に聞く仕立て屋なのですか?」


「はい。」

男性はゆっくりと作業台へ歩いていき、軽く頭を下げた。


「私はアーサー・グレイと申します。」


「アーサー・グレイ……」


ローザリンはその名を心の中で繰り返した。


「あなたが、願いを叶える服を作ると聞きました。」


「その通りです。」


「どんな願いでも?」


「はい。叶うのは、真の願いだけですが。」


ローザリンは、一歩前へ進み出た。


「では……私の願いを聞いてください。」


アーサーは静かに頷く。


「どうぞ、お聞かせください。」


ローザリンの喉が乾いた。


覚悟を固めるように、言葉を絞り出す。


「女王陛下を……生き返らせてください。」


工房の空気が静止したように感じた。


アーサーは表情を変えなかった。

ただ、ローザリンをまっすぐ見つめている。


「女王陛下を、ですか。」


「はい。」

ローザリンは強く頷く。


「三日前に崩御なさいました。でも、まだ間に合うはずです。

どうか……どうか女王陛下を――」


「承知しました。」


その即答に、ローザリンは息を呑む。


まさかここまで迷いなく承諾されるとは思っていなかった。


「……本当に、可能なのですか?」


アーサーは作業台の上に置かれた、銀色に輝くものに手を置いた。


「こちらをご覧ください。」


ローザリンはゆっくりと近づいた。


そこには、銀糸で編まれた鎖帷子があった。

細かな網目が月光を受けて淡く輝き、

まるで液体の銀が流れているように、滑らかに揺れていた。


「これは……」


「時を巻き戻す鎖帷子です。」

アーサーは静かに説明した。


「これを身につけて女王陛下のもとへ向かえば、

時間そのものが巻き戻ります。」


「時間が……巻き戻る……?」


「はい。女王陛下が亡くなる直前まで、時が戻るでしょう。」


胸が熱く脈打った。

本当に女王を救えるのだ――そう思った。


だが、アーサーは続けた。


「ただし、条件があります。」


「……条件?」


「この鎖帷子を着る者は……

女王陛下を狙うすべての暗殺者の“標的”となります。」


ローザリンは眉を寄せた。


「暗殺の……標的に?」


「はい。」

アーサーは静かに頷く。


「女王陛下に向けられるはずだった憎悪も殺意も、

すべてあなたに引き寄せられます。」


「つまり……」

ローザリンは理解した。


「私が、女王陛下の身代わりになる、ということですね。」


「その通りです。」


ローザリンは短く考えた。

だが、答えはとっくに胸の奥で決まっていた。


「構いません。」

彼女の声は揺るぎなかった。


「それで女王陛下をお守りできるのなら、私は喜んで引き受けます。」


アーサーはしばらくローザリンを見つめ、

そのまなざしに宿る覚悟を静かに受け止めた。


「……あなたの真の願いは、女王陛下を生き返らせることではありませんね。」


ローザリンは息を呑む。


「何を……?」


アーサーは穏やかに続けた。


「あなたが本当に望んでいるのは、

女王陛下が背負っていた重荷を、自分が代わりに背負うこと。

その痛みや苦しみを、共に担いたい――そうではありませんか。」


胸の奥を、真っ直ぐ貫かれたような感覚。

言い返す言葉が見つからなかった。


ローザリンは、そっと目を伏せた。


「……その通りです。」


かすれた声が漏れる。


「陛下はいつも孤独でした。誰にも弱音を吐かず、多くを背負って……

私は何もできなかった。剣では守れても、心は守れなかった……」


アーサーは鎖帷子を持ち上げ、ローザリンに差し出した。


「では、これをお持ちください。

あなたの願いは――必ず叶えられます。」


ローザリンは両手で鎖帷子を受け取った。


驚くほど軽い。

けれど、その網目の輝きには、言葉にできないほどの重みが宿っているようだった。


「……これを着れば、私は死ぬのでしょうか。」


ローザリンの問いに、アーサーは静かに答えた。


「それは、あなたの真の願いに委ねられます。」


ローザリンは鎖帷子をもう一度見つめた。

淡い銀光がゆらりと揺れ、彼女の決意を照らすようだった。


これを着れば、女王を救える。

そして自分が、陛下の重荷を引き受ける。


――それが、ずっと望んでいたこと。


「分かりました。」

ローザリンは顔を上げた。


「対価は、いくらですか?」


「金貨百枚です。」


その額を聞いた瞬間でさえ、彼女の手は迷わなかった。

懐から革袋を取り出し、アーサーに差し出す。


それは騎士として蓄えた全財産だった。


アーサーは袋を受け取り、引き出しの奥へ静かにしまった。


「ありがとうございます。」

深く頭を下げる。


「どうか……お気をつけて。」


ローザリンは鎖帷子をしっかり抱えて歩き出す。

だが扉の手前で、ふと足を止め、振り返った。


「アーサー・グレイ。」


アーサーは穏やかな目で彼女を見る。


「あなたは……どうして、こんなことをなさるのですか?」


アーサーは少しだけ考え、静かに答えた。


「人の願いを叶える。それが私に課された役割だからです。」


「たとえ、その願いが人の生死を左右するものであっても?」


「はい。」

迷いなく頷く。


「どんな結果を招こうとも、私は願いを叶えるだけです。」


ローザリンは複雑な表情を浮かべた。


「……あなたは、不思議な方ですね。」


アーサーは微笑んだ。


「よく、そう言われます。」


ローザリンは深く頭を下げ、扉を開けて工房を出た。


扉が閉まり、静寂が戻る。


アーサーは窓辺に歩み寄り、

霧の向こうで遠ざかっていくローザリンの背を、ただ静かに見送った。


ローザリンの姿が霧に溶けて見えなくなったころ、

裏口のほうから静かに人影が現れた。


エルドラだった。


「……彼女は、死ぬかもしれない。」


低く沈んだ声。長年の経験を持つ者だけがまとえる、重たい憂い。


アーサーは首を横に振った。


「いいえ。彼女は生き続けます。」


エルドラは目を細める。


「なぜ、そう言い切れる?」


アーサーは月光の残る窓の外を見つめながら答えた。


「彼女の“真の願い”は、死ぬことではありません。

女王陛下を守り続けること――それこそが、彼女の願いなのです。」


エルドラはしばらく黙った。

弟子の横顔を見つめ、その言葉の奥にあるものを探るように。


「……お前は、本当にすべてを見通しているのか。」


「いいえ。」

アーサーはあっさりと否定した。


「私は未来を見ることはできません。

ただ――願いが見えるだけです。」


エルドラの視線が、作業台の上へ向かった。


そこには、白い布地が置かれていた。


「……セディック・クロウはどうなる。」


アーサーは静かに布地へ手を添える。


「彼の服も、まもなく完成します。

そして彼もまた、自分の真の願いと向き合うでしょう。」


「救済、か。」


「ええ。」

アーサーは小さく頷く。


「どのような形の救済を選ぶか……それは、彼自身が決めることです。」


大きく、深いため息が工房に落ちた。


エルドラは肩をわずかに落とし、囁くように言う。


「いつか……その“仕事”が、お前を壊す日が来るかもしれない。」


アーサーは答えなかった。


ただ静かに、霧の向こうへ視線を向け続けていた。


銀の鎖帷子を抱えたローザリンが、

彼女自身の運命の道を歩き始めている。


その糸はすでに動き出した。

誰にも止めることはできない。


願いは、叶えられる。


たとえ、それがどんな結末を導こうとも。


外に出れば、月は雲に隠れ、

霧はより濃く、夜は深く沈んでいた。


だがその中で、運命の糸は確かに織り上げられていく。


すべての願いが、一つの結末へ向かって。


そして――その瞬間は、すぐそこまで迫っていた。

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