第11話 女王の死
第十一章 女王の死
謁見の間が揺れるようにざわめいた。
緑の服を着た少年が、女王の腕の中で力を失い、そのまま崩れ落ちたのだ。小さな体は糸の切れた操り人形のようにぐったりとしていて、どんな声をかけても反応しそうになかった。
「誰か! 医師を!」
ローザリン・アシュフォードが叫び、剣を抜いたまま周囲を警戒しつつ女王のもとへ駆け寄る。
だが——その瞬間だった。
女王が、ふいに膝をついた。
「陛下!」
ローザリンの声が裏返る。
アウレリア三世は少年を抱きかかえたまま、ゆっくりと床に座り込んでいた。蒼白な顔には冷たい汗がにじみ、息は浅く乱れている。
「陛下、どうされたのですか!」
ローザリンは女王の肩を支えながら叫ぶ。
「分からない……急に、胸が」
女王は胸元を押さえた。
心臓が明らかにおかしい。脈が乱れ、締め付けるような痛みが走る。
まるで、見えない手が心臓を掴み、握りつぶそうとしているかのようだった。
「医師を! 早く!」
ローザリンは再び叫ぶ。
侍従たちは血相を変えて走り去り、孤児たちは恐怖に固まり、謁見の間は一気に混乱の渦へと陥っていく。
それでも、女王の意識だけは不思議なほどはっきりしていた。
腕の中の少年を見下ろす。緑の服は小さな体に不釣り合いなほど上質で、ゆっくりと揺れている。少年の顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだった。
「この子は……」
女王はかすかに呟く。
ローザリンが少年の首筋に触れた。その指が止まり、表情が凍りつく。
「……脈がありません」
「そうですか」
女王は静かに言った。「この子は、死んでしまったのですね」
「陛下! 今はご自身の——!」
だが、女王は少年から視線を離さない。その目には深く沈むような悲しみが宿っていた。
「なぜ……」
女王の声は震えていた。「なぜ、こんなに小さな子が」
少年の顔には苦痛の影すらない。むしろ安らかな微笑みさえ浮かび、まるで長い苦しみからようやく解放されたかのようだった。
女王の胸の痛みはさらに激しくなる。呼吸が苦しく、視界が滲む。
「ローザリン……私は、もう……」
「何をおっしゃるのですか! 陛下、しっかり!」
ローザリンは女王を抱きしめ支えたが、女王の体はみるみる冷えていく。
医師たちが駆けつけたときには、女王は完全に意識を失っていた。
彼らは薬草を煎じ、心臓に刺激を与え、できる限りの治療を施す。
しかし——女王の瞳は再び開くことはなかった。
一時間後、宮殿に重く低い弔鐘が響きわたる。
その音が告げたのは、ただひとつ。
女王アウレリア三世、崩御。
ローザリン・アシュフォードは、女王の寝室の前で膝をついていた。
扉の向こうでは、白布に覆われた女王の遺体を医師が検分し、侍従たちが葬儀の支度を始めている。
しかしローザリンは、そこから動けなかった。
剣を杖のように床に突き立て、深く頭を垂れたまま。
涙は、もう枯れていた。
最初の一時間、彼女は子どものように声を上げて泣いた。
だが今は、涙も尽き、胸にはただ空虚だけが広がっている。
「私は……何をしていたのだ」
女王を守る——それが自分のすべてだった。
幼い頃からの誓い。父との約束。自分が騎士である理由。
なのに、それを果たせなかった。
謁見の間で剣を手にしていながら、女王を救えなかった。
「許してください……陛下……どうか……」
ローザリンは額を床につけた。しかし当然、女王が答えることはない。
やがて、足音が近づいた。
ローザリンが顔を上げると、宰相エドワード・ハミルトン卿が立っていた。
老いた顔には深い悲しみと疲労が刻み込まれている。
「アシュフォード団長」
宰相は重い声で言った。「立ちなさい」
ローザリンはふらつきながら立ち上がる。
その足は悲しみで震えていた。
「……少年について、調査の結果が出ました」
宰相は手にした書類を開く。
「緑の服を着ていた少年——彼は聖ヨハネ孤児院の孤児で、年齢は八歳。名前は記録されておらず、『十七番』と呼ばれていたようです」
ローザリンは拳を固く握った。
名前すらなかった子ども。
「死因は……不明です。外傷なし、毒物の痕跡なし。ただ、突然心臓が停止しています」
「なぜそんなことが……」
宰相はゆっくり首を横に振る。
「分かりません。ただし、一つだけ奇妙な点があります」
ローザリンは宰相を見つめた。
「——あの緑の服です。調べたところ、非常に高級な布で作られていました。孤児院が手にできるような代物ではありません」
ローザリンの胸に、冷たい疑念が生まれる。
「では……誰かが、わざわざあの服を?」
「その可能性が高い。そしておそらくは、陛下を——」
「暗殺」
ローザリンは絞るような声で言った。
宰相は慎重に言葉を選ぶ。
「断定はできませんが……その線を排除できません」
ローザリンの瞳に、燃えるような怒りが宿った。
「誰が……誰がこんなことを……」
宰相は静かに告げた。
「聖ヨハネ孤児院は……セディック・クロウの組織の管理下にあります」
その名が出た瞬間、ローザリンの心にあった迷いは霧のように消え去った。
「……私は」
彼女は剣の柄をゆっくりと握りしめる。「必ず、あの男を討ちます」
「待ちなさい」
宰相は手を上げ、制止する。「証拠が不十分です。セディックを告発すれば、彼の信奉者たちが暴動を起こすかもしれない」
「では、何もせずにいろと?」
「そうではありません。慎重に調査を進め、確かな証拠をつかんでから動くべきなのです」
ローザリンは歯を食いしばった。
慎重に——慎重に。
そんな言葉を、今さら聞きたくはなかった。
女王はもういない。
慎重にしている間に、また誰かが犠牲になるかもしれない。
「……分かりました」
ローザリンはようやく絞り出すように言った。「ですが、私は独自に動きます」
「アシュフォード団長……」
「女王陛下を守れなかった私には」
ローザリンは宰相をまっすぐに見た。
その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「せめて、復讐する権利があります」
宰相は言葉を失ったように口を閉ざした。ただ、深い溜息が漏れる。
ローザリンは一度だけ、女王の安置された寝室の扉を振り返る。
「陛下……」
かすかな声で呟く。「必ず、仇を討ちます」
そして、踵を返し、ゆっくりと廊下を歩き出した。
その足取りは重いが、確かだった。
だが——ローザリンの胸の奥には、別の思いが芽生えていた。
祖母の日記。
そこに記されていた“願いを叶える仕立て屋”の伝説。
もし、本当にそんな存在がいるのだとしたら。
もし、女王を取り戻すことができるのだとしたら。
「私は……」
ローザリンは歩きながら呟く。
「何でもする」
---
そのころ、セディック・クロウの隠れ家では。
彼は椅子に座り、手下からの報告を聞いていた。
「女王が……死にました」
手下は深々と頭を下げる。「計画は成功です」
セディックは表情を変えず、黙ったままだった。
女王は死んだ。
自ら立てた計画のとおりに。
神の御心が実現したのだ。
——なのに、不思議と喜びが湧いてこない。
「……素晴らしい」
セディックは表面だけの微笑みを浮かべた。「神に、感謝を」
「神に感謝を!」
手下たちが声を揃える。
だが、その唱和が終わっても、セディックの胸には冷たい空虚が残ったままだった。
勝利したはずなのに。
目的を果たしたはずなのに。
心は、何ひとつ満たされていなかった。
「下がれ」
セディックは手で合図した。「私は……一人になりたい」
手下たちが部屋を去ると、静寂が訪れた。
セディックは立ち上がり、窓へ歩み寄る。
窓の向こうには王宮が見え、弔いの旗が揺れ、鐘が鳴り続けていた。
その音は、女王の死を悼む響き。
「これで……いいのだ」
セディックは自分に言い聞かせる。「異端を庇う者は、滅ぼされた」
だが、胸の奥で小さな声が囁く。
——本当に、これでよかったのか?
セディックは強く首を振る。
迷ってはいけない。
これは神の道なのだ。
だが、その夜、彼は再び同じ悪夢を見た。
緑の服を着た少年が、静かに彼を見つめている。
その目には怒りも憎しみもなく、ただ深い悲しみだけが宿っていた。
「どうして……」
少年は問いかける。「どうして、僕を使ったの」
セディックは答えられなかった。
「僕は……ただ、楽になりたかっただけなのに」
「それが、神の御心だ!」
セディックは叫んだ。「お前は神に仕えたのだ!」
少年は首を横に振る。
「違うよ。僕は……ただ死にたかっただけ」
その瞬間、言葉が刃のようにセディックの心を貫いた。
セディックは叫びながら目を覚ます。
汗で衣服が肌に張りつき、息は荒く乱れている。
「……夢だ」
震える声で呟く。「ただの、夢だ」
だが心の奥では、否定するほどに強く、ある疑念が芽生えていた。
自分は、間違えたのではないか。
あの少年を犠牲にしたことは——本当に正しい道だったのか。
セディックは頭を抱える。
「違う……私は間違っていない。これは、神の御心だ……」
だが、その確信は、揺らぎ始めていた。
そしてこの揺らぎが——
さらに深い悲劇を呼び寄せることになる。
工房では、アーサー・グレイが窓辺に立ち、静かな夜空を見上げていた。
月は厚い雲に隠れ、星々だけがわずかな光を放っている。
「女王が……亡くなりました」
裏口から現れたエルドラが、静かに告げた。「お前の仕立てた服によって」
「いいえ」
アーサーはかすかに首を振った。「あの少年自身の願いが、そうさせたのです」
「少年の願いは……自分の死だった」
エルドラは深く息をつく。「だが、なぜ女王まで巻き込まれた?」
「服の魔術です」
アーサーは淡々と言った。「あの服は、“着た者”と“近くにいる者”の生命を結びつける。どちらか一方が死ねば、もう一方も道連れになる」
エルドラは目を細めた。
「……お前は、それを知っていて作ったのか」
「はい」
短い返事だった。しかしそれだけで十分だった。
エルドラはしばらく沈黙し、そして低く呟く。
「お前は……いつかその選択の重さに押し潰される」
「かもしれません」
アーサーは素直に認める。「ですが、僕は仕立て屋です。願いを叶える。それが僕の役目です」
「たとえ……女王が死ぬとしても?」
「たとえ……誰が死ぬことになっても」
エルドラはアーサーの横顔を見つめた。
穏やかに見えるが、その目の奥には深く沈殿した悲しみがあるように感じられた。
アーサーは、人の生死を左右する魔術を扱いながらも、まるで何も感じていないように見える——だが、それは違う。
エルドラには分かっていた。
アーサーは感じている。
深く、痛いほどに。
ただ、それを表に出してしまえば、願いを叶える者としての役割を果たせなくなる——だから出さないのだ。
「アーサー」
エルドラは優しく言った。「お前は……背負いすぎている」
アーサーは返事をしなかった。
ただ、黙って針を手に取り、作業台へ向かう。
そこには銀色の糸で編まれた鎖帷子が置かれていた。
エルドラがその服に視線を移す。
「……あれが、アシュフォード団長のための服か」
「はい」
アーサーは鎖帷子を手に取り、光にかざした。「時間を巻き戻す服です」
「時を、巻き戻す……?」
エルドラは息を呑んだ。「そんなこと、本当に可能なのか」
「精霊たちの力を借りれば、できます」
アーサーは淡々と答える。「ただし、代償は大きい」
「どんな代償だ」
アーサーは鎖帷子を静かに撫でながら言った。
「着た者は——世界中の“暗殺の標的”を引き寄せる存在になります」
エルドラは絶句した。
「……それでは、死の宣告と変わらないではないか」
「いいえ」
アーサーはゆっくり首を振った。「それが、彼女の“真の願い”なのです」
「真の……願い?」
「ローザリン・アシュフォードが本当に望んでいるのは」
アーサーは銀の鎖帷子を見つめたまま言った。
「女王の背負っていたものを、すべて自分が引き受けることです」
エルドラは言葉を失い、ただアーサーを見つめ続けた。
しばらくして、エルドラがそっと口を開く。
「彼女は……ここに来るのか」
「来ます」
アーサーは迷いなく言った。「彼女の願いは強い。必ずここに辿り着き、自らこの服を求めるでしょう」
「お前は……止めないのか」
「止める権利は、僕にはありません」
アーサーは静かに答えた。「願いを叶える。それが僕の役目です」
エルドラは弟子の横顔を見つめた。
——この若者は、本当に何も感じていないのだろうか。
だが違う。
アーサーの胸には確かに痛みがあり、罪悪感があり、自分の選択への葛藤もある。
ただ、それらすべてを押し殺して仕事をしているのだ。
だからこそ、彼の手は止まらない。
アーサーは鎖帷子を台の上に戻すと、ゆっくりと針を動かし始めた。
一針、また一針。
銀の糸が、月に照らされて淡く光る。
その輝きは美しいが、どこか哀しく見えた。
まるで、静かにこぼれる涙のようだった。
アーサーは、黙々と針を進め続けた。
銀の糸が、夜の静けさの中でかすかに揺れ、月明かりを細く反射する。
その光は美しく、どこか儚かった。
まるで、誰にも気づかれずにこぼれ落ちる涙のように。
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