第2話 優等生の仮面と放課後の沈黙


 翌日の教室は、いつものようにチョークの粉っぽい匂いと、気だるげな五月の湿気に満ちていた。二限目の現代文、老教師の単調な朗読が子守唄のように響く中、あたしの視線は吸い寄せられるように斜め前方の席へと向かっていた。そこに座る鳴海暁の背中は、定規で引いたように真っ直ぐで、微動だにせず黒板を見つめている。窓から差し込む初夏の陽射しが、彼女のサラサラとした栗色の髪を透かし、天使の輪のような神聖な光沢を作り出していた。クラスメイトたちは誰も疑わない。彼女が清廉潔白で、誰にでも公平で、穢れなどとは無縁の聖華学園が誇る模範的な優等生だと信じ切っている。けれど、あたしだけは知っている。そのパリッとしたワイシャツの下にある肌の白さも、整えられた爪先がどれほど無慈悲に柔らかい肉を抉るかも、そして今この瞬間も、彼女が昨日の廃墟での出来事を反芻して密かに愉悦に浸っているかもしれないことも。あたしは頬杖をつき、太腿の内側に微かに残る鈍痛を確かめるように脚を組み直した。そのひりつくような痛みだけが、この退屈で平和な日常の中で、あたしたちが共有する秘密のアンカーだった。


「……おい、井伏。聞いてんのか?」


「えっ?」


 不意に背後からシャーペンの先で肩を小突かれ、あたしは現実に引き戻された。振り返ると、後ろの席の神楽坂悠人が、教科書を立てて教師の視線を遮りながら、呆れたような顔を覗かせている。彼はサッカー部のエースで、クラスのムードメーカーだ。日焼けした肌と、竹を割ったような屈託のない性格は、じめじめとした秘密を抱える今のあたしとは対照的で、その眩しさが時折無性に痛く感じる。彼がこうして気安く話しかけてくるたび、あたしの背筋には冷たい緊張が走るのだ。なぜなら、この教室のどこかに設置された見えない監視カメラが、常に作動していることを知っているからだ。


「さっきから先生、お前んとこ見てるぞ。また暁のこと見てただろ。ほんと、仲良いよなぁ」


「う、うるさいな。ノートの文字が見えなかっただけだってば」


「はいはい、そういうことにしておいてやるよ。でさ、今日の放課後なんだけど、みんなで駅前の新しいカフェ行かないか? 詩織も来るって言ってるし」


 悠人は人の良さそうな笑顔を浮かべ、小声で誘いをかけてきた。それはごくありふれた高校生の日常であり、本来なら喜んで飛びつくべき「青春」の一コマだ。しかし、あたしの喉は引きつり、即答することができない。視界の端で、暁の右手が動くのが見えたからだ。彼女はこちらを振り返ってはいない。ただ、ノートを取るために走らせていたシャーペンの動きが、ピタリと止まっていた。その静止は、雄弁な警告だった。背中越しに伝わってくる「音を立てない威圧」に、あたしの心臓は早鐘を打った。暁は聞いている。悠人との他愛ない会話すら、彼女にとっては「所有物への不当な干渉」と見なされるのだ。その理不尽な独占欲が怖く、同時に、身体の奥が熱くなるような倒錯した喜びを覚えてしまう自分が疎ましかった。


「ごめん、今日はちょっと……委員会があるから」


「え、またかよ? 暁と一緒だろ? お前ら、最近付き合い悪くね?」


「ごめんって。また今度ね」


 逃げるように会話を切り上げ、前を向く。その瞬間、暁がほんの少しだけ首を巡らせ、横目でこちらを一瞥した。無表情な瞳の奥で、冷たい光が一瞬だけ揺らめく。それは「合格」のサインであり、同時に「後でたっぷり絞る」という宣告でもあった。チャイムが鳴り、授業が終わるまでの数分間、あたしは背中に突き刺さる視線の熱さと、昨日の行為で敏感になった下肢の疼きに耐えながら、ただ息を潜めていた。


 放課後の喧騒が遠ざかる頃、あたしたちは図書室のさらに奥、廃棄予定の古い資料や郷土史のバックナンバーが積まれた閉架書庫へと向かった。暁が生徒会役員の特権で鍵を管理しているこの場所は、埃と古紙の独特な甘い匂いが充満する、あたしたちだけの隠れ家だ。重たい鉄扉が閉まり、鍵がかかる金属音が「ガチャリ」と硬質に響いた瞬間、暁の纏っていた「優等生の仮面」が剥がれ落ちる。彼女は振り返りもせず、埃を被ったパイプ椅子に浅く腰掛け、足を組んだ。


「……神楽坂くんと、随分楽しそうだったね」


 感情の読めない平坦な声。それが開始の合図だった。あたしは無言で彼女の足元に跪き、制服のスカートの裾を握りしめる。弁解は許されない。彼女が求めているのは言葉による言い訳ではなく、従順な態度による証明だ。あたしの視界には、暁の履いている白いソックスと、磨き上げられたローファーだけが映っている。


「違うよ、暁。あいつが勝手に話しかけてきただけで……あたしは、暁のことしか見てない」


「口では何とでも言える。人間は嘘をつく生き物だからね。でも、体は正直だ」


 暁は冷ややかな瞳であたしを見下ろすと、ゆっくりと両脚を開いた。制服のプリーツスカートの奥、白く清潔な下着が薄暗い書庫の中で淡く発光して見える。彼女は自らのスカートを捲り上げるのではなく、あたしの反応を待っていた。あたしは震える手で彼女の膝に触れ、白い太腿を撫で上げる。指先が触れるたび、暁の呼吸がわずかに乱れるのがわかった。彼女もまた、この背徳的な主従関係に興奮しているのだ。学校という規律の場、壁一枚隔てた向こうには図書委員や勉強に励む生徒たちがいる。その事実が、羞恥心を極限まで煽り立てるスパイスとなっていた。


「昨日の傷……まだ痛む?」


 不意に、暁の指があたしの顎を掬い上げて上向かせる。先ほどの冷徹さとは打って変わり、その声には粘着質な甘さが混じっていた。昨日の夕暮れ、廃墟となった部室棟で彼女が刻み込んだ刻印。その痛みが、今は愛おしいもののように錯覚させられる。


「……うん。歩くたびに擦れて、暁を思い出して、変になりそうだった」


「そう。授業中も、ずっとそんなこと考えてたんだ。淫らだね、燈子は。……なら、確認させて」


 彼女は椅子から降りると、あたしを床に座らせ、自らもその場にしゃがみ込んだ。書架の陰、埃っぽい床の上で、彼女の手があたしのスカートの中に滑り込んでくる。その手つきは、まるで傷ついた小鳥を手当てするかのように慎重で、残酷なほどに優しい。


「ひっ……ぁ、あき……っ」


「静かに。声を出したら、神楽坂くんに聞こえちゃうよ? 彼、まだ昇降口にいるかもしれない」


 意地の悪い囁きと共に、指が不躾に秘所へと触れる。昨日の行為で充血し、敏感になっている粘膜を、暁の冷たい指先が確かめるように愛撫した。あたしは口元を手で覆い、必死に声を殺した。暁はあたしの潤んだ瞳と、赤く染まった頬、そして強張る太腿の筋肉を満足げに観察している。彼女の瞳には、悠人への嫉妬など微塵も感じられない。あるのは、あたしのすべてを掌握し、コントロールできているという絶対的な自信と、歪んだ所有欲だけだ。


「見て、燈子。こんなに濡れてる。学校で、優等生の私の前で、こんな顔をして……。昨日の今日で、まだ足りないの?」


 暁の指が、あえて痛む部分を避けるように、その周辺を執拗に責める。快感と痛みが入り混じり、脳が白く弾けそうになる。あたしは首を振りながら、それでも彼女の腕にしがみついた。この痛みがある限り、あたしは暁のものだ。そう確認されることが、何よりも安心できる儀式になってしまっている。


「ちが、う……暁が、さわっ……から……」


「ふふ、そうだね。私が触るから、燈子は感じるんだ。燈子の体は、私の指にだけ反応するようにできている」


 暁が濡れた指を引き抜き、あたしの唇に押し当てる。鉄錆のような血の味はしなかったが、代わりに自分自身の体液の味と、暁の指から香る冷たい石鹸の匂いが混ざり合い、口内に広がった。それは契約の更新だった。あたしたちが普通の友人には戻れないこと、そしてあたしが彼女の「親友」という名の所有物であることを告げる儀式。


「いい子だ。今日はこれくらいにしておいてあげる」


 暁はハンカチで指を丁寧に拭くと、何事もなかったかのように立ち上がった。乱れた制服を整え、髪を耳にかける仕草は、再び完璧な優等生そのものだった。しかし、その瞳だけが、熱を帯びたままあたしを射抜いている。


「帰ろうか、燈子。……明日は、家においで。もっと深いところまで、話(・)をしよう」


 その言葉の意味を理解し、あたしは背筋が震えるのを感じた。チャイムの音が遠くで鳴り響く。あたしたちは互いの体温と匂いを制服の下に隠し持ち、放課後の沈黙の中へと足を踏み出した。廊下の窓から見える空は、昨日よりも深く、重たい色をしていた。

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