第2話

 父が出て行ったのは、母が鬱病になってまもないとき。狂う母に怯えながら、父は他に女を作って行ってしまった。母は半狂乱になって父の行方を追ったが、父は女の家に転がり込んでいるようで、その家がどこにあるのか、母もうたたも十元も知らなかった。母は家のすみでうずくまって泣いていた。朝から晩まで。眠くないの? 寝ようよ。そう言っても母はすみのほうから移動しないで、しくしく泣いている。最後の方は疲れ切ってうたた寝していた。布団をかぶせてやると、気がついて、思い出したように泣き始めた。

 あんな痛いたしい時が過ぎて、今はあのころよりはましになったと思う。それほど酷くはない。いや、そんなに変わらないかもしれないが。なれたのかもしれない。

 母の涙をみる分だけ、うたたは自分のこころがすさんでいくのを感じる。無力だ。自分には何もできない。愛しい人は自分の言葉を聞いてくれない。無力。自分に何ができるのだろう。役に立っていない。そう思う。自分には愛情が足らないのじゃないか。時々そう感じて、自分を針で突っついてみる。何か汚いものが溶け出す。わずらわしさ。そんな思いが自分の中に掬っている。自分を殴りたくなる。頭を思いっきり叩いて、めまいがするほど叩いて、今の細胞を殺して、新しい細胞に生まれ変わりたくなる。


 早朝の新聞配達のバイクの音を聞きながら、うたたは目を覚まし、会社に行く準備をする。昼ご飯に食べる弁当を鞄に入れて、洗顔して、メイクをする。大きな目をブラウンのアイラインで囲んで、時々隣室の母の気配に耳を澄ます。

 今日、母が死んでいるかもしれない。

 毎日そんなことを思いながら目を覚ます。

 朝起きると、うたたはまず母の寝室をのぞく。そこに寝息をたて寝ている母を見つけるとほっとする。生きていた。それが嬉しい。

 生きていた。安心し、うたたは自分のやる仕事に目をやる。今日は早出だ。工員の仕事は忙しい。しかし、うたたは疲れなど感じず、うきうきしている。なぜなら、うたたは仕事に行くのが楽しみなのだ。それは工員のリーダーに恋しているせいだ。大木厚彦。スマートで、背が高く色白で、切れ長の瞳の美しい人。うたたは彼が自分を見る目を特別なものに感じる。彼もうたたを気になっているのかもしれない。本当のところはわからないが、しかし、悪いものではない気がする。メイクを終え、うたたは髪をハーフアップにする。耳が出ると少し幼さがにじみ、良い感じである。

 二十歳くらいにみえるわ。

 本当は二十四歳である。

「十元、お母さん起きたらごはん食べさせてね。お姉ちゃん仕事行くから。じゃあね」

「あーい」

 十元はベッドの中から声を出す。そして、起き上がりあくびをする。


 どうしたら、どうしたら、もっと、もっともっと、明るく、幸福になるのだろう。不幸とか暗いところとかみじんもない人生って存在するのだろうか。もし、存在するのなら、どんな人がそんな人生を歩めるのか。


 途方もないことを考えて、うたたは車を運転し、職場に向かう。車の扱いもなれたものである。十八歳のときに免許を取り、働いた金で新車を買った。赤い車。赤い糸の迷信が好きで、それにちなんで、選んだ。

 いつか、好きな人と幸せになる。それがうたたの女の子らしい夢である。リカちゃん人形のボーイフレンドが欲しかったように、美しく綺麗で可愛い世界を夢見ている。


 車を職場の駐車場に入れると、すぐ前の方の空きスペースに、大木厚彦が白い車を入れる。

 うたたはぱあと心が明るくなった。いつも同じ時間にはちあう。わざと意識して、うたたがその時間にくるようにしているのである。

「おはよ」

 うたたは車から出ると、大木厚彦に挨拶した。

「おはよう。良い天気だね」

 二人は更衣室まで並んで歩く。うたたは緊張しながらも興奮し、今日テレビでやっていたニュースの話題などはなす。大木は聞き役である。

 いつまでも話していたいような温かい空気。うたたの頬は赤い。横を見ると、大木の顔も赤かった。きっと、いや、絶対両思いだ。

 自分から告白するのは恥ずかしいので、大木の方から告白してくれないか。そう期待して、毎日を送る。毎日代わり映えのしない。しかし、着実に糸はたぐっている。


「忘年会どうする? 久保田さんは行く?」

 大木厚彦はうたたに聞いた。

「もちろん行く。大木さんも来るんでしょ?」

「俺はリーダーだから行かないとまずいでしょ」

「そうだよね。あはは」


 十二月に入ってそんな会話をした。クリスマス前にみんなで忘年会だ。

 うたたはその日の計画を立てる。家では十元にいてもらうけれど、夜ご飯は弁当にしてもらおう。作るのもいいけれど、後かたづけが面倒だし。

 でも母が心配だ。自分がいないところで悪いことが起こらなければいいが。自分の存在が母の生命をつなぎとめている。自惚れではなく、そう思う。私がいないと母はだめなのだ。母の事を考えると胸がつまる。いつか来るであろう、その日が、目の前にちらつく。自殺、母が自殺したら……。怖い。そんなことがあったら、私は壊れるんじゃないか。一生立ち直れない。生きて欲しい。絶対生きて欲しい。だから、私はどんなことがあっても母を守る。母の味方でいる。

 うたたは母のことを考えると、いつも決意を胸に秘める。


「だからね、十二日は、忘年会だから、私いないの。何かあったら十元に言って。電話してきても良いから」

「お酒飲んで酔っぱらって楽しむの? さぞいいだろうね」

 母は皮肉に口角をもちあげた。そしてぎらぎら光る眼で、うたたを下から見上げるようにみた。

「職場のつきあいだから。これからも円満に働けるように行くしかないの。私が一人いかないんじゃ、しらけて嫌われるわ。行かないといけないの。わかるでしょ」

「私はいいだろうねっていっただけよ。好きにすればいい」

 母はむくれて、こたつの中に入ったまま横になった。眉間にしわを寄せ、怒っている。彼女は自分だけ楽しくないと思っているのだ。

 うたたはリンゴの皮を剥きながら、悲しげに顔を歪めていた。

「お母さん、怒ったの?」

「怒ってない。どうして怒らないといけないの」

「そんな顔しているから」

「私はただ、気分が悪いの。そういう顔なの」

「どうして気分が悪いの?」

「どうでもいいでしょ」

 母は眼を大きく見開くと、天井を見つめ、静かに涙をこぼした。

「泣くことないじゃない」

 母は両手で顔を覆う。

「つまらない、つまらない、なあんにも楽しくない」

 母そう言って泣きじゃくる。

「別に良いじゃない。つまらなくたって。そう毎日楽しいことが続くことなんてないんだから」

「胸が苦しい……」母は胸元をかきむしりながら、ティッシュをとって、鼻を拭いた。

「何かおみやげ買ってきてあげるから」

「そんなものいらないの」

「じゃあ、どうして欲しい? どうしたらお母さんは楽なの?」

「つまらないの。世の中が。お母さん、死にたい」

「そんなこと言わないで。生きようよ。何にもしなくていいから。いてくれるだけでいいから」

 悲しいことばかり言う母が可哀想で、うたたまで涙がこみ上げてきて、指先でそっと拭った。

「りんご皮むけたよ。食べなよ」

「いらない。胸がいっぱい。心臓が破裂しそう。お母さん病気かもしれない。いっそ癌になりたい」

「馬鹿なこと言わないで。癌の人が可哀想だわ」

「あんただって、こんな母親いない方がいいと思っているんでしょ」

「そんなこと思ったことない!」

「嘘。思ったことあるわ」

「信じてよ。お母さんがいなくなったら私死ぬから」

「いいね。一家心中しようか」

「また馬鹿なこと言ってる。いい加減にしないと怒るよ」

 うたたは切った林檎を齧る。あまり嚙まずに飲み込んだ、それはのどをちくちく傷つけながら胃に落ちる。家の空気が重くて、息苦しかった。悲しみのベールが家全体を包んでいるようだった。

「林檎、あとで食べな。ここ置いとくから」

 そう言って、うたたは席を立った。母の側にいるのが辛かった。辛いことを考えないといけないのがしんどい。逃げるように廊下に出て、ほっと溜息をはく。

 うたたは自分の部屋に入ると、ベッドに腰掛け、カレンダーをみる。忘年会の日に丸がついている。大木厚彦の顔が浮かぶ。酔っぱらったら彼はどんな感じになるのだろう。意外と泣き上戸だったりして。可愛いな、うたたは小さな幸福を感じる。大木のことを考えている間は嫌なことも忘れられる。

 母が辛いときに自分だけ楽しむのは気がとがめるが、母につきあって自分まで落ち込んでしまったら、それは共倒れで良くない。今よりもっと悪くなる。そう思って、うたたは母から離れると、意識して、心から母の苦しみの残骸を閉め出す。そして、一人の空想に浸り、自分の濁った心を浄める。

 うたたは鏡をとり、自分を映す。最近痩せて可愛くなった気がする。 

 彼のことを考えると、胸がドキドキと高鳴り、頬が燃える。うたたは心に決める。

 今じゃないけれど、いつか大木厚彦に告白しよう。理想は彼の方から告白してくれることだけれど、そんな未知なことに期待するよりも、自分のほうからさっさと告白したほうが、早い。

 すきです、そう言った先の事を妄想し、うたたはにたつく。押さえようのない笑顔が顔に浮かび、眼はきらきらと明るくなった。

 大木さん好きな人いるかな?

 いないほうがいい。もしいるなら、それは私であればいい。

「明日早いし、もう寝よ」

 うたたは目覚ましをセットすると、眠りに落ちた。

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