愛の猛り

宝飯霞

第1話

 夕日が沈み、暗い夜がやってくると、久保田うたたは、いつも、目の前の人生も暗闇にまとわれるように感じる。そして、うっと息がつまる。

 夜は嫌いだ。何も見えない。遙か彼方から何かが襲来しても気づかない。それが怖い。何かに怯える毎日の中、彼女は朝が来ることをいのる。明るい光の中で過ごしたいと思う。しかし仕事から帰ってくると、夜で、そこから彼女の一日の苦悩は始まる。

 うたたは、古い家に、母と弟と暮らしている。母は化粧けもなく、太っていて、ほぼ毎日を布団の上で過ごす。苦痛に攻められているように眉を寄せて苦しげな顔をしている。汗ばんだ体をかきむしりながら唸っている。ここ数年、彼女が笑った顔をみていない。唇をすぼめてもぐもぐしているか、泣いているか。母は鬱病だった。うたたが家に帰ってくる時間をみこして、母は時々、リストカットをする。血が滴るのをみせつけながら遠い目をする。どうして、お母さん。うたたが、悲しげに顔を曇らせると、母はけろりとして、うたたの悲しみに自分の悲しみが吸い込まれて一瞬だけ気分が明るくなるのである。

その自分を慰める一瞬のために、母は手首を切る。痛みなんてどうでもよかった。うたたが自分の価値を教えてくれる。

「馬鹿だわ。お母さんって」

 うたたはあきれながら、母の傷の手当をする。手首が切断されるほど深く切るんじゃなくて、うっすら肉が見えるくらい切るのだ。白い皮と脂肪の間。そういうのをちゃんと計算しているのをみると、母が生に執着しているようで、だた気を引きたいのかと思ってしまう。しかし、母は鬱病で。時に本気で死にたいと願うのだ。

「ごめんね、うたた。お母さんなんていなくなれって思っているんでしょう」

「そんなこと思わないよ。どうしてそう思っていると思うの?」

「だって、ほら怒っている。怒っている顔している」

 怒っているつもりはないのに、そんなことを言われるのは心外である。うたたは、悲しげに顔を歪めた後、すぐに真顔になり、眉を下げ、微かに笑い、優しい顔で母の背をなでた。

「うそよ。そんな。私怒らないわ。どうして怒るの? 怒る意味なんてないじゃない」

「お母さんにうんざりするんじゃないの」

「だって、お母さんは病気だもの。しかたないよ。私がうんざりしたくらいでお母さんの病気がよくなればいいけれど、それは私次第じゃなくて、お母さん次第だから」

 傷口を消毒し、ガーゼをはると、うたたは夕食を作るために台所に立った。

「お母さん、テレビでも見たら。何も考えないことが一番だよ」

 台所からそう叫ぶと、母は、おとなしく居間のテレビをつける。変に逆らったりすると、娘を傷つけると思って、気まぐれな気遣いをしている。それでも、母はテレビに集中できなくて、血のにじんだガーゼを見つめ、存在することの恐怖に体をふるわせる。そして、静かに涙をぽたぽたと落としては手のひらで目をこする。

 弟の十元が帰ってきた。彼はガソリンスタンドで働いている。制服のまま帰ってきて、すぐにシャワーを浴びる。丸刈りの頭をシャンプーで泡立て、顔まで洗う。彼は男にしては貧弱な体である。女のようだと言われないように大きな美しい瞳をめがねで隠し、鼻の下には髭を生やしている。それが、幼さとあいまっておかしかった。髭を剃ったら。そういううたたの助言を十元は汚らわしいといわんばかりに強くつっぱねる。彼は髭のあった方が男らしいと思って気に入っているのだ。気に入っているというのはおかしなもので、似合っていようが似合っていないが関係ないのだ。本人が良いと思うのは自分に似合うからそう思うのではなく、そのものが好きだからいいのだ。

 切り干し大根の煮物と、焼いたししゃもと、大根の味噌汁をつくると、ちょうどごはんも炊けて、うたたは家族にできたと呼びかけた。

 食卓に料理を広げ、家族も集まって、さあ食べようというと、母は箸も持たずに、拳に握った両手を太股のうえに載せ、肩をいからせ、うつむいている。太った二重顎から、目から伝った涙がぽたぽた落ちる。

「お母さん、お腹すいたでしょう?」

 うたたがおそるおそる言うと、母はぶひと鼻を鳴らす。

「せっかく作ってくれたけれど、お母さん食べられない。食欲無いの。今は」

 今食べなくても、どうせ後でお腹空いて何かしら食べるのである。

「せっかく温かいうちに食べようって言うのに、あとじゃ冷めちゃうよ。温かい方が美味しいのに。少しでも食べてみて、温かい方が心にも良いと思うの」

 母は嫌だと首を横に振った。

「あとで食べるんならいいよ。今食べたくないんだろう」十元がなだめるように言った。

「そうかな、でも……」

 うたたは納得いかないようにつぶやく。母の冷え切った心が温まるように温かいものを食べさせたいのに。

「味噌汁だけでものんだら」

 後で食べるとなると、母は冷汁を冷たいご飯にかけるのだ。決して温めないのだ。温めることが面倒なのだろうけれど。

「いらないわ。私は何にも食べなくても良い。一生食べなくても良い。もうお母さんに食べ物を与えないで。見殺しにして。私、死んだっていいんだ。迷惑ばかりかけて、お母さん嫌だよ。あなたたちも早くやっかい払いしたいと思っているんでしょう。わかるよ。言わなくても。目を見てればわかる。お母さんなんていらないって思うでしょう。お母さんと一緒にいたくないでしょう。私があなたたちだったら嫌だと思うから」

「何を言っているの。自分の都合よく私たちを悪者にして」

 うたたは腹が立った。母の決めつけようが気に入らない。

「そうイライラしないで」

「イライラしているのはお母さんでしょ。食べないからイライラするんだよ。食べて。お願い。少しでも良いから。心の健康は体の健康からだよ。栄養とろうよ」

 母は顔をくしゃりと歪め、ひーひーと泣き出した。

「だから、姉ちゃん、余計なこと言わなくもいいのに。どうせ今食べなくても後で食べるんだ」

 十元は、嫌みっぽく言って、母の背をさする。

「ごめんね。お母さん。私が悪いの。ごめんね。泣かないで」

 うたたはあわてて謝った。

 理不尽だ。そう思うのに、決して母を責められない。病気なのだ。病気だから多少のわがままは許さなくては。

「死んだっていいの」母は泣きむせぶ合間にあえぐように言う。

「死なないでよ。死んじゃ駄目だよ」

 うたたは必死になだめる。悪い言葉が出たらすぐに否定してやらないと、母の体が手の中をすり抜けて奈落に落ちていく気がした。一生会えなくなる気がした。一つの間違いが大きな事故を起こす、そんな予感が、うたたと十元の心を苦しめ、縛り付ける。

「もう寝よう。お母さん」

 薬を飲ませて、母をベッドに連れて行く。薬のおかげでしばらくすると、母は眠りに落ちていった。

 うたたは洗い物をして、風呂に入った。風呂に浸かりながら、彼女は一人っきりの時間を味わう。母が起きていると気を使って疲れるが、今は誰にも気兼ねすることない。じんとする温かさに身をおいていると、眠くなってくる。

「はあ……」

 疲れ切っているせいか、おもわず溜息がこぼれる。体が重い。ずっとこうしていたい。静かなところでじっとしていたい。

 いつ治るのだろう。いつまで続くのだろう。母はよくなっているのだろうか。いつも同じようなことの繰り返し。母の苦しみを感じながら毎日過ごしている。薬なんて効かないじゃないか。そう言ってしまえば終わりで、いつか明かりが射す日を待っている。

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