深遠の結晶

神崎あきら

序章

神への供物

 西に傾く夕陽がたなびく雲間に溶けてゆく。やがて黄昏の空に深子神みこがみ山のなだらかな稜線がくっきりと浮かび上がる。その山麓には鬱蒼とした森が広がっていた。重なり合う常緑樹の葉は日の光を悉く遮り、地表に影を落とす。

 森の中に苔むした古い鳥居が立っていた。長年の風雨に晒された扁額には御子神神社と刻まれている。鳥居の先には石畳の参道が続く。森の奥へ誘われるように枯れ葉の降り積もる参道を進むと、切妻造の本殿が現れる。

 夕闇の中、灯籠の炎が人影を照らし出す。煤けた作業着姿の若い男が玉砂利の上に跪き、それを五人の男が取り囲んでいる。男たちも同じ作業着姿で、中には逞しい腕に刺青が覗く者もいる。一様に防毒マスクを被り、分厚いガラスの奥から若い男を見据えている。豊かな鉱物資源を有する深子神山に作られた鬼嶋鉱山の労働者だ。

「放せ、俺は何も盗んでいない」

 若い男が身を捩って叫ぶ。屈強な男たちに両腕を掴まれ、動きを封じられていた。

「往生際が悪いぞ、河村」

 断罪の輪を外野から眺めていた鼠色のジャケットを羽織った男、鬼嶋きじま繁利しげとしが煙草に火を点けた。それを合図に男たちが河村を押さえ込む。

「くそっ、何をする」

 河村は激しく抵抗し、周囲に玉砂利が飛び散る。しかし、野太い腕に押さえ込まれて身動きができない。

「嘘をつくな。お前の寝床から輝藍鉱きらんこうの原石が見つかったと密告があった」

「そんな馬鹿な、間違いだ。俺はやってない。ここで三年間真面目に働いてきた。はした金で人生を棒に振る気はない」

「そうは言っても証拠が出ちまってるからな」

 鬼嶋はわざとらしく残念そうに眉根を寄せ、証拠となる輝藍鉱を取り出してみせる。輝藍鉱はここ最近、鬼嶋鉱山で産出されるようになった稀少鉱で、まだ世に出回っていないため金よりも高値がつく。

「信じてくれ、俺じゃあない。俺には生まれたばかりの子どももいる。妻も産後の肥立ちが悪くて寝込みがちだ。俺が、俺がいないと」

「そうだったな、お前のところには赤子がいたな。さぞや金が掛かるだろう」

 悲痛な訴えが裏目に出て河村は絶句する。無慈悲な薄笑いを浮かべる鬼嶋を化け物でも見るような表情で見上げる。鬼嶋の背後に控えていた初老の神主、木島紀夫がおもむろに歩み出る。

「神聖な御山からは石ころひとつ、木切れ一本たりとも許可なく持ち出すことはできない。よりによって神の石とされる輝藍鉱を盗み出すとは、貴様はとんだ罰当たりだ」

 木島は指差し断罪する。神職に就きながら金に汚いと噂される男だ。輝藍鉱を御子神神社のご神体として祀り、山の神の化身だと吹聴している。

「違う、俺はやってない。嵌められたんだ」

 河村は悔しさに血が滲むほどに唇を噛む。罪人のレッテルを貼られたら覆すことはできない。気に食わない作業者のポケットに石ころひとつ入れておけば良い。坑道から出たとき、監視係がその石ころを見つけたら盗人確定だ。一度盗みを働いた者は二度と戻ることはない。追放されたか、それとも。河村もそんな状況を嫌というほど見てきた。見て見ぬふりをするしかない。次は自分の番だ。

「御山の神がお怒りだ。怒りを鎮めるには人柱を埋めるしかない」

「な、なんだと」

 河村の顔から血色が失せた。同時に絶望の色が浮かび上がる。これは死刑宣告だった。こんなデタラメな私設裁判がまかり通るのはこの鬼嶋鉱山が鬼嶋財閥の傘下にあり、鬼嶋家の人間の言葉だけが正義となるからだ。警察組織すらその財力で買収していると聞く。こうやって怠け者、怪我をした者、反抗する者を排除していくのだ。河村は知っていた。鬼嶋が器量の良い妻の真知子に劣情を抱いていることを。まさか、こんなことまでして奪い取ろうとするとは。

「ふざけるな、俺は無実だ」

 河村は怒声を上げる。鬼嶋が肺に吸い込んだ煙草の煙をゆっくりと吐き出す。男たちは暴れる河村を殴り、腹を蹴り飛ばした。防毒マスクに隠された顔はわからない。飯場で同じ釜の飯を食った仲間たちには違いない。金のためか、保身のためか、これほどまでに人は獣になれるのか。河村は激しく咳き込んで血痰を吐く。

「真知子の面倒は俺が見てやるよ」

「くそったれ、この畜生が、殺してやる」

 怒り狂った河村は男たちを振り切って鬼嶋に掴みかかろうとする。一際大柄な男に羽交い締めされ、河村は動きを封じられる。

「この虫けらめ。鬼嶋に逆らうか」

 鬼嶋は苛立ち、煙草の火を河村の額に押しつけた。河村は血走った目で鬼嶋を睨み付け、唾を吐きかける。鬼嶋は激昂して抵抗できない河村を何度も殴りつけた。

「おい、盗人がどうなるか教えてやれ」

 鬼嶋が命じると、男たちが河村を石の台座の前に引き摺っていく。そして河村の利き手を踏みつけ、台座に固定した。男が手斧を持ち、河村の目の前に白刃をちらつかせる。

「盗みを働いたのはこの手だな。二度とできないようにしてやる」

「や、やめろ、やめろぉおおお」

 河村の絶叫に森がざわめく。躊躇いなく手斧が振り下ろされた。肉と骨を断つ鈍い音がして、河村の手首がぼとりと落ちた。血飛沫が顔の半分かけた石地蔵に飛び散る。河村は激しい痛みにその場を転げ回る。

「がぁああああっ、くそったれ、貴様ら絶対に許さねぇぞ」

 河村の額から流れる血が滂沱の涙と交じり、血涙となって頬を伝う。男の一人が荒縄を河村の手首に巻き付け、止血する。

「これより穢れを祓う」

 木島が和紙を載せた三宝を恭しく掲げる。白い和紙に粉末が載っている。粉末は光の加減で青色の輝きを見せた。男が出血により意識朦朧としている河村の顎を強引に持ち上げ、開かせた。木島が和紙を傾け、粉末を河村の口に流し入れる。河村は異物を吐き出す余力もない。さらに手水舎の水を柄杓で飲まされ、粉末は喉を滑り落ちていった。

 灯籠の火が消え、森に棲む烏が眠るまで凄惨な拷問が続いた。河村は血だるまになっても最後まで罪を認めようとしなかった。痛みと屈辱の中で真知子と子供のことをひたすら案じていた。

「まったく強情な奴だ」

「お前は最初から気に入らなかったんだよ」

 男が玉砂利の上に転がる河村の腹を蹴り上げる。河村は血ヘドを吐き、潰れていない片目で男を見上げる。すでに焦点は合っていない。防毒マスクで顔を隠した卑劣な男たち、歪な神を祀る拝金主義の神主、そして鬼嶋の力を笠に着て外道の所業をはたらく鬼嶋繁利。薄れ行く意識の中でドス黒い怨念が地獄の業火の如く燃え上がる。黒い怨念は痛みも屈辱も、河村の意識さえも呑み込んでいく。

 鬼嶋の指示で河村の身体はガス爆発事故で廃坑となった第六坑道の奥へ運ばれ、鎖で支柱に繋がれた。木島の祝詞が穴ぐらに反響する。支柱にはこれまでに人柱となった罪人たちが鎖に繋がれたまま朽ち果て、哀れな骸を晒している。彼らの多くも冤罪だったのかもしれない。

「年に七柱の御柱のおかげで深子神山の神を鎮め、恵みを分けていただくことができる。有り難きことです」

 木島は河村の前で手を合わせる。しらじらしい、と鬼嶋は強欲な神主を内心愚弄する。この「御柱供養の儀」の度に金を積んでいる。また釣り上げてくるだろう。河村は沈黙のまま白濁した眼で暗闇を見つめている。

 第六坑道を後にした鬼嶋は長屋社宅に住む河村の妻、真知子の元へ向かい、夫が坑道内で事故死したことを伝えた。信じられないと泣き崩れる真理子の肩を抱き、ほくそ笑む。畳に寝かされた小さな赤子がぐずって泣き始めた。

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