夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>

狐月華

1 『金魚草の冒険』

序章 夜明け前の樹影

 郁人は子どもの頃から霊が見えた。


 けれど、それは何の役にも立たない、ただ厄介ごとを呼び寄せるだけの体質にすぎなかった。


 ――見えなければ、どれほど気が楽だっただろう。


 霊が見えると知られたとき、人々はまるで別人のように距離を置いた。


「気味が悪い」「縁起が悪い」


 ――そんな言葉は、もう聞き飽きていた。

 

 見えもしないのに霊を怖がるだけ怖がる人間の方がよほど冷たく、残酷だった。彼らの目には、理解よりも嫌悪の色が濃く混じっていた。


 気付けば、郁人の方から人を避けるようになっていた。


 見て見ぬふりをするより、誰とも関わらない方が楽だった。そうして、いつの間にか心の奥まで静かに冷えていった。


 ――だからこそ、この森に足を踏み入れたのは、ある決意があってのことだった。


 森の入口には、かすかに季節の名残が漂っていた。


 春の終わりを思わせる生ぬるい風が、若葉を揺らしながら通り過ぎていく。草の葉先に宿る露が、沈みかけた光をわずかに返していた。


 耳を澄ますと、遠くでかすかな虫の声が震え、風とともに葉の間をかすめていく。そのわずかな響きに、森がまだどこかで息づいている気配が仄かに漂っていた。


 けれど、一歩奥へ踏み入れると、光は途端に濁った。


 空を覆う枝葉が陽を遮り、外界の色をすべて飲み込んでしまう。昼の名残を抱いた空気は、そこではすでに冷えを帯び、湿り気と共に重く沈んでいった。


 森の奥の夕暮れは、街の夜よりも深く暗い。陽が沈みきらぬうちに光は枝葉に絡め取られ、橙から灰色へと鈍く変わる。


 空と地の境界は曖昧で、息をするたびに湿った空気が胸の奥をなぞった。風はほとんどないのに、枝や葉の擦れ合う音が、遠くから僅かに響いている。その音には、季節が移ろう刹那の揺らぎと、そこに取り残された気配のようなものが混じっていた。


 この場所には、形を保てぬまま彷徨うものたちが息を潜めている。見えない視線が闇の奥からじっとこちらを窺っているようだった。胸の奥が重く沈み、足音さえ吸い込まれる。


 郁人は歩いた。


 足元の落ち葉は冬を越えて湿り、腐葉土と混ざりあって靴底にまとわりつく。踏みしめるたびに鈍い音が響き、それが遠くの闇へと吸い込まれていく。静寂が肌にまとわり、息をするたび、土と朽ちかけた木々の匂いが胸に染みた。


 それでも、歩みを止めなかった。影のように、黙って森の奥へ進んでいく。


 ――そのとき、霧の奥で淡い光が揺れた。


 光は小さく震え、やがて人の形を帯びる。幼い男の子だった。


 男の子は顔を伏せ、声を殺して泣いていた。小さな肩が震え、涙が頬を伝うたび、その輪郭が淡く滲む。夕暮れの残光が霧の粒に散り、光と影の境にその姿を浮かび上がらせた。


 郁人は眉をひそめた。


 ――また、か。


 見間違いではない。それは確かに“あの世のもの”だった。


 やがて短く息を吐き、何も言わずに背を向けた。薄暗く沈んだ森の奥へ、独り歩みを進める。


 背後で泣き声が追いすがるように響く。しかし郁人は足を止めなかった。


 入り口に残っていた淡い季節の香りは、もう遠い。森は完全に、夜の底へと沈みはじめていた。

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