第7話 明るい(?)女性

 会計を済ませて店を後にすると、既に月は真上を過ぎていて夜が深まったと伝えてくる。



 2歩前を歩く女性はどんどん複雑な路地の住宅街へと街灯の少ない道を進んでいった。


「彼は乱暴なところもあったけど基本的にはすっごく優しかったんだよ。乱暴って言っても私が反論したりお給料稼げなかったりするのが悪いの。彼に叩かれるのも愛されている感じが伝わってくるから好きだったなぁ」

「…」


 暗がりを進み続ける女性から先ほどまでの優しさや明るさがどんどん引けているような気がしてならない。実際消え去りつつあるのだろう。

 一歩、歩みを進めるごとに闇に飲み込まれるような焦燥感と刺すような冷たさを感じる。


 ゴクリと唾を飲む自分の音が遠くで聞こえた。


「青年が話しかけてくれた時、彼が私を探して迎えにきてくれたんじゃないかって期待してたの。居酒屋に行った時も彼が私を探して来ているんじゃないかって思ってた。でも、いなかった。どうしてなのかな?」


 なんて答えるのがこの女性の心に波風を立てないのだろうか。

 …選択を間違えてはいけないと直感が告げている。

 しかし、女性はこちらの返答には期待していなかったらしい。


「青年みたいな視える人が私よりも先に彼を向こうへ無理やり案内したのかな。きっとそうだよね、そうじゃなければ彼が私を待たないなんてことあり得ないもの」


 冷たく、ドロドロとしている空気が女性の方からこちらへと絡めとるように撫で付けて、まとわりついて締め付ける。重たく、息がしづらい感覚に陥られているだけで済んでいるのは流がいるからなのか土鈴のおかげか。


「あの日、彼が私のお腹に包丁を突き立てて来たの。私が子供欲しいなんて我儘言ったせいで拗ねちゃったみたい。でも、私すごく嬉しかった。だって彼が子供よりも私と2人だけで生活して行きたいって意思表示してくれたんだから。だからね、彼に私も貴方が1番だよってお腹に刺さった包丁を抜いて返してあげた」


 くるりとこちらを振り返った女性の笑顔はいびつに歪み目は光を失っていた。

 頬に添えられた指輪には、元々は鮮やかな赤だっただろう黒いドロっとした液体がこびり付いている。


 それが何なのか理解してしまったが、なるべくなら考えたくもないので思考を逸らそうと頭の中を空っぽにするよう努めてなんでもないふりに徹した。


 自転車のハンドルを握りしめた手は冷や汗で濡れて不快だ。

 …まだ、大丈夫。

 そう自分に言い聞かせて何でもない風に装って女性を見据えた。


 怖気づけば、それを悟られれば一気に弱みにつけ込み攻め込まれる。その後どうなるのかは聞いたことないが絶対に悟らせてはならないとキツく大じいちゃんからも流からも言われているので碌なことにならないのは理解しているつもり。

 だから何も気づいていないフリをする。あくまでも善意で話しかけた視えるだけの悪意を感じるほどの力を持っていない一般大学生として。



 女性の後ろの街灯が数回点滅した。


パチッ…バチッ…ガガ


 僕の脳内ではガンガンと警鐘が鳴り響き今すぐに逃げろと叫んでいる。


 …できることなら僕だってそうしたい。でも、それは許されない。

 今の状態の彼女を放置したら地縛霊となり成仏もできずに永遠にこの世に縛られる。

 それは神戸や流が許さない。

 だから、僕が逃げることは出来ない。


 


 女性は何を思っているのかこちらをじっと見て黙っている。光を失っただけではなく濁り始めた瞳は、まるで僕の強がりに気づいているんだとでも言わんばかりの力強さでこちらを射抜く。


 肩に乗る流は四つ足で立ち上がり背を丸めて威嚇の体制をとる。爪が肩に食い込む痛みが僕の意識を引っ張られないように保たせてくれた。



 どれくらいの時間が経過しただろうか。多分30秒も経っていないだろうけど数時間対峙している感じがする。…まだ、気を抜いてはいけない。


パチッ…バチッ…ガガ……


 二度目の街灯の接触不良。


 そうしてようやく気が済んだのか女性は瞬きを一つしてニコリと目を細めた。


「まだ恋をしたことのない青年には難しい話だったね。ごめんごめん」


 そう言った時には既に先ほど纏っていた悪意とドロドロした雰囲気は嘘のように消え去り、居酒屋の時に見せていた明るさを取り戻していた。

 …切り替えが早い。


「…いえ」

「ここまで来て、話にも付き合ってくれてありがと!そろそろ帰らないと心配されちゃうから帰るね!じゃあね、親切な青年」


 後ろに手を組んで女性は歩いてゆく。


 街灯を通り過ぎるとフッとその姿は消え去った。


 大きく息を吸って、吐く。どっと疲れが押し寄せる疲労感に自分は無事なのだと実感する。


 ポケットの土鈴を見るといつもの壊れて使い物にならない土鈴へと戻っていて振っても鈴は鳴らない。

 あの女性の本来いるべきあの世へと向かったか、もう少しこの辺りを彷徨うのかはわからないが、どちらにせよ神戸の勤めは果たせたようだ。



 さっきのまとわりつく生ぬるい空気が気持ち悪くて、住宅街を早く抜け出したくて足を運ぶ速度を速めた。


「久しぶりに厄介なのが当たったな」

「…そうだね」

「あいつ、オレのことに気づいてたのに知らないふり決め込んでたぜ。それしたら何か企んでるか悪意があるとバレるのによ」

「…そうだね」


 流は悪意ある人々からすると敵に回したくない生き物らしい。厄除け?みたいな効果があるそうだ。効果を体験したことはこれまでで一度もないので本当かは知らないが。



 神戸の勤めはあくまでも地縛霊になるのを防ぐだけ。あちらの世へ直接向かわせる案内人でもなければ困っているあちらの人全員に手を差し伸べる救世主でもない。

 必要最低限の手助けしかできないこの役割に本当に意味はあるのだろうか。


「…毎回思うけどあの世ってどこなんだろう」

「そりゃだろうよ」

「…僕には見えないけどあの人たちには何か見えてるの?」

「望みが叶うかあの世へ行くと決めるかしたら自然と行くべき場所へ導かれるって言うぜ?オレにも見えねぇから実際はわからねぇがな。あといつも言ってるが、終わった件は引きずんなよ」


 引きずるな。つまり考えるなということ。

 僕は頷いて踵を返し、やや勢いをつけて自転車に跨った。

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