第2話 東宮武官の旦那さま(2)

 帝都にたたずむ洋館のとある一室で、赤ん坊の泣き声が響いていた。


 お仕着せの着物に白いエプロンをつけた少女は、駆け寄ってゆりかごから赤ん坊を抱き上げる。そしてゆらゆらと揺れながら、赤ん坊の背に手を添えた。


「よしよし」


 栗色くりいろがかった髪を緩くまとめ、控えめな面差しの少女であった。

 少女は柔らかげな目を閉じると、赤ん坊の内に宿る心の炎が、だいだいいろに揺らめいているのが見えた。

 ぐずるその子の背中を優しくさすりながら、手に意識を集中させる。すると、ぽうっとほのかな光が少女の手を包むように宿った。手に宿った力を赤ん坊の中へと注ぐと、揺らめく炎は穏やかなともしびとなり、赤ん坊の泣き声は次第に小さくなる。温かい湯にかったように全身の力が抜けて、表情も心地良さそうなものに変わっていった。

 やがて赤ん坊はこっくりとうたた寝をし始め、少女はほっとした表情を浮かべた。

 このままゆりかごに戻して寝かせるか、もう少し腕の中で優しく揺らしながら見守るか考えていると、部屋の扉が開いて女中じょちゅう仲間が声をかけた。


撫子なでしこ。ご主人さまがお呼びだよ」

「今、参ります」


 撫子と呼ばれた少女はそう答えると、抱いていた赤ん坊をお願いして、屋敷やしきの主人の部屋へと向かった。


 主人の部屋は二階にある。舶来の家具やアンティークが並び立てられた部屋の奥に、撫子の雇い主の姿があった。

 年齢は三十代半ばで、夏物のベストと白シャツを着用し、前髪をなでつけた貫禄かんろくのある風貌だ。貿易商を営んでおり、よくこの部屋で商談も行われていた。


「ああ、来たかい。君の働きぶりは聞いているよ。乳母も他の女中も助かっているとね」

「ありがとうございます」


 撫子は殊勝に頭を下げた。寺で育った撫子は、幼子を寝かしつける評判がいため、その縁で現在こちらの屋敷に住み込みで奉公している。主人は羽振りが良く、撫子の給金は寺の方へ支払ってもらっていた。


「君はいくつになるんだい」

「十八になります」

「そうか。君は本当に子どもに好かれる性質なのだな」


 にこやかにうなずいた後、すっと目を細めた。


「私の後妻になりたいと思ったことはないか?」

「え?」


 空気が一変し、撫子は困惑した。

 彼の妻は出産で亡くなっている。後妻を迎えるという話も出ているが、この流れでその話が出てくる意味がわからず、頭が真っ白になったのだ。


「確かに君はただの女中だ。だから、正式な妻は無理かもしれないが、君が望むなら囲いの妻として大切にしよう」


 手を取られそうになり、撫子は慌てて手を引っ込めた。

 うっかり触れられると、不思議な力に気付かれてしまうかもしれない。

 だが、それを拒絶と受け取ったのか、主人の目つきが鋭くなった。

 撫子は後あと退ずさりをしようとして、部屋に飾られていた花瓶にぶつかる。あっと思った瞬間、花瓶は床に落下して粉々に割れた。


「も、申し訳あり……」


 咄嗟とっさにしゃがんで、破片を拾おうとしたが腕をつかまれる。


「今、そんなことはどうでもいい。それより返事はどうなんだ」


 詰問をされ、撫子は動けなかった。握られる腕が痛い。

 やめて、と言いたかった。けれど、声をあげたところできっと誰も来てくれないだろう。


「ああ、君は責任感が強くて真面目だからな。大丈夫、しつけし直してやろう。そうすればきっと、喜んでこれから先も誠心誠意、私に尽くしてくれるようになるさ」


 主人の言葉が、撫子の心をいでいく。

 めて、世話になった寺に迷惑をかけるのは嫌だ。


 けれど、どうか考え直してほしい。

 撫子は、心の中で叫んだ。


(――――誰か……!)


「何をしている」


 部屋の扉が開いたかと思うと、黒い軍服に軍帽を被かぶった青年が現れた。

 青年は主人の腕を摑むと素早くじり上げ、動きを封じる。

 解放された撫子は、驚いてその光景を見つめていた。

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