北浅間村物語 エピソード1 「オメルタの掟」

源間 ショウ

第1話 晩秋の別荘地で

 秋が山々を赤や黄あるいは茶色に染めるようにして深まり、冷たくなってきた風に枯れ葉が舞う浅間高原の別荘地に、が現れた。お腹に白い雪のような“ふわふわ”をつけて妖精のように飛ぶ虫で、この雪虫を見てから二~三週間で初雪が降ると言われている。雪虫の正式名称はトドノネオオワタムシと言い、アブラムシの仲間で六月から十月頃まではトドマツに住み、十月を過ぎるとヤチダモという木に移動する。この時、雪のようなものをお腹につけて飛ぶため、初冬の風物詩と言われるようになったようだ。


 朝から昼にさしかかる時間帯にその別荘地のはずれの見晴らしが良い場所で、男が雄大な百名山に連なる山々を感慨深げに眺めていた。右手に見えるのは草津白根山、左手には四阿山あずまやさん、真ん中には消えた天空の鉱山の跡と表万座が望めるこの場所は彼のお気に入りだった。それぞれの山頂付近は既に白い積雪が遠めにも見えて、人一倍寒がりな彼は頬にあたる風に少し首をすくめながら、


「この夏は本当に・・ありえないことばっかり・・」とため息をつき、「まあ・・みんなが無事だったし・・そろそろ平和な平地に帰るかな」と独り言を呟いた。


 彼の名は肥後丈一郎ひごじょういちろう。今年六十六歳になった。 横顔には特に特徴はないが比較的すっきりした顔立ちで、髪には少し白髪が交じり、顎には短めの髭を蓄え、口元には苦虫を潰したような苦笑いと、心から満足しているような目尻の皺とがない混ぜになったような表情になっていた。そう、確かに彼にはこの半年で色々なことが降りかかり、恐ろしい体験と心からの感動とやり場のない悲しみを感じていた。しかし、そんなトラブルに対しても彼は前向きに取り組み、新旧の仲間との絆を活かして良い働きをしたと言えるだろう。存外多くの人に幸運をもたらしたのも事実だった。そして、そんな色々な事があったこの地に彼は心からの愛着を感じ、ここに生きる心優しき人達への親しみを深め、冬の間しばらくの期間この地を離れる事に、大いに感傷的になっているようだった。


 ぼんやりと何かを考えているような、何も考えていないような彼の幸せな時間が過ぎた頃に、ふと人の気配を感じて横を見ると、短期間に信頼できる友となった先輩住人の早田はやたがすぐ隣に来ていて、同じように山々を眺めながら、


「雪虫が飛んでいますね。早いもので秋が終わり、冬がそこまで近づいているようです。肥後さん、今年の夏は本当に散々でしたね!可哀想にのんびりする暇も無かったでしょう?」と、この地の先輩住人としての気遣いとも言えるような口調で話しかけてくるのを丈一郎は心地よく聞いた。丈一郎は頷きながらも


「確かに・・のんびりしている暇はなかったですね。でも、久しぶりに懸命に生きたような気がしていますよ」と、感慨深そうに応えた。避暑地でのんびり過ごすことを目的に半移住してきたのに、多くの予期せぬトラブルに巻き込まれ、てっきり嫌になったとでも言うのかと思いきや、『懸命に生きた』という言葉と、少し楽しそうな表情に早田は少し驚いたが、何も言わずにいた。肥後丈一郎という男の不思議な定めを理解しつつあるのだろう。なぜかトラブルに巻き込まれると言う定めを。


 また次の春にはこの地に戻ることを早田と山々にも約束して、首都圏の真ん中に位置する街の妻と娘と愛猫の待つ自宅に帰ろうとするのだった。しかし、彼が行くところには穏やかな毎日だけではなく、また何か不穏な事が待っているような気がする。まあ、これからのことはさておき、この秋までに彼と彼の周辺で何があったのかをお話しする。

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