第2話 丈一郎と家族・友人のこと

 丈一郎はこの物語の重要な登場人物だが、主役と呼ぶには特徴のない普通の前期高齢者の男で、性格は明るく社交的なのだが、生き方は堅実なタイプだった。今年の二月で六十六歳になった。結構多趣味で、渓流釣りやキャンプ、トレッキング程度の山歩き、写真撮影などアウトドアでの活動がメインでゴルフもたまにする。仕事としては六十歳の定年の三年前まで新卒で入社したそこそこ有名な企業に勤め、一念発起して定年前に再就職活動をして勤めた会社も昨年の二月に無事契約満了となり、五月から念願の涼しい浅間山の麓の北浅間村の高原の中古別荘でのセカンドライフを始めているのだった。そんな彼の最大の特徴と言えば外見ではなく、堅実な生き方をモットーにしているわりに、なぜかトラブルや事件に遭遇することだった。そして、最後には不思議と良い結果を得ると言う事だろう。彼自身がトラブルを求めているわけでも、事件をスーパーマンのように解決するわけではないが、なぜか良い方向に回転するような不思議な運を持っており、常にその際には友人等がそばに居て、それをある意味証言する立場にいるのだった。


 しかし、丈一郎自身はこのようなトラブルに遭遇する際に、それより後に起る事をわりと即時に頭の中でイメージ出来ることを自覚していたが、それを話すと敬遠されることもあるので、発言には気をつけていた。専門的な正式な呼称は不明だが、というのか近い未来のシーンを頭の中で描くことができ、他人には説明できないのでいつも自然に心が動く方に向かうのだ。この現象は子供の頃から時折発生していたが、事情があって自ら封印していた時期があった。事情とは、仲の良い友達といるとこの未来予測のような感覚が鋭くなり、それをそのまま言葉にすると結構な確率で当たることがあったようだ。例えば幼稚園から小学生ぐらいの子供の頃に良くやるでの現象だが、仲の良い友達が隠れた場所をほとんど当ててしまうような事で、当ててしまうと目を開けていたのだろうと疑われたそうだ。未来を言い当てるような事は普通ではないため、気持ち悪がられ、友達が少しずつ離れていくのは必定で、彼は大学生ぐらいになるまで、なるべくこのイメージが頭の中に出てこないようにしながら過ごした。彼のこの不思議な現象の発生が大学生時代に多いのは、受験の束縛から離れ、かなり自由な空気が漂う学生時代に、封印していた未来予測のようなイメージ想像力が、束縛を離れて動き出したと考えられる。しかし、不思議なことにサラリーマン時代には根拠のない意見は軽視され、データや事実に基づく行動が重視されたので、彼の能力というか特性はまたも封じ込められたようだ。というよりデータや経験値に基づく予想や判断の方を重視した結果、未来予測の能力を自ら放棄したので、活用する場面がほとんどなかったようだ。


 そもそも、未来予測に近い能力は日常的に普通の人が無意識のうちに次に何が起こるのかを予測して行動を調整しているもので、良いスポーツ選手はこの能力を日頃の練習で高める努力をしているし、一般人も混雑している場所で他者との衝突を避けるルートを予測しているのでそれほど特殊なものではない。ただ、超常現象としての予知能力は夢や直感などを通じて未来の出来事を事前に知覚する能力を指すので、科学的な根拠は欠如しており、科学の分野では疑似科学と見做されることが多いようだ。一方で科学的思考に基づいた予測のスキルはトレーニングによって向上させることが可能で、膨大な情報やデータから傾向を分析し、論理的に未来を予想することは今後AIの活用によりさらに進化していきそうである。丈一郎の能力はこの科学的な領域ではなく、経験とコミュニケーション能力と偶然が組み合わさった結果のようだが、定職につかず自由度の増した今の彼には、この不思議な力がまた湧き出してくる可能性がある。追々そのような場面に遭遇するので、その時に思い出して頂きたい。彼のトラブル遭遇率の高さと比較的幸運な結末を。


 さて、別荘生活に関しての補足だが、昨年は二週間に一度は三時間かけて別荘から自宅のある埼玉県某市に帰ってきているので、完全な移住ではない。北浅間村で別荘を購入するまでには数年間の移住地と物件探しをしてきており、特に夏場の涼しさは絶対に外せない条件だった。丈一郎の別荘地はロケーションとして標高千メートルを超しており、別荘地の管理レベルが程良い事と過疎化もそれほど進んでおらず、総合評価的には合格点だった。北信濃沢に程近く別荘地が広がる浅間高原と呼ばれるエリアにあり、自然も豊かで彼の趣味にも合っていた。そして、何よりもこの別荘の近くの村に親友が住んでいる事も大きかった。


 この親友とは同じ大学に通い、学部は違ったが飲み会でたまたま知り合い親しくなったのだ。学生時代には毎週のように待ち合わせて飲みに行ったり、長い休みには一緒に旅行に出かけたりする仲となり、大学を卒業後も付き合いが続く気心の知れた親友であった。その親友の名は牧野巌まきのいわお。風貌は一言で言うとちょっと厳つい。背は高くないが、眉が濃く鼻筋が通り大きな目でぐっと睨まれるとかなり威厳があり、小さな子供なら泣き出しかねない。そのぐらい迫力がある。ただ、性格は温厚でかなり涙もろいが知能レベルは高く、大学在学中に司法試験に受かったほどの秀才だ。彼は北浅間村の隣町の群馬元町の出身だが、五十歳までは東京に本社のある企業に勤務し、全国や海外を出張や転勤で数年ずつ移動するような仕事をしていたが、父母の介護もあり地元の中堅企業に転職して戻ってきたのだった。その父母も高齢になり入居した養護施設で相次いで亡くなり、実家も古くなったので建て替えようとしたのだが、実家の土地は農地が主で住宅を建てられる部分は広くなく、いっそ別の土地に家を建てることになった。その際、彼は独身なので地元に住む弟家族と二世帯住宅のような作りの家を群馬元町の隣町の北浅間村に建てたのだった。牧野の弟は地元警察で刑事をしており名前は牧野剛まきのつよし。兄の牧野巌とは十五歳ほど歳が離れており、巌が高校生の時に生まれた弟だった。色々とこれから起こるトラブルや事件の中で、この二人との親密な関係が大きくプラスに影響することになる。


 ところで、丈一郎には妻と二人の娘がいたが、長女は三十三歳、次女は三歳年下の三十歳だが、二人とも独身だった。長女は全国に拠点がある専門商社に勤務しており、東京・大阪・名古屋と支店勤務を経験しており、現在は福岡での二年目を迎えていた。男勝りの性格で、独身自由人を謳歌している。次女は流通業界に就職し、業界では中堅の食品や日用品を扱うチェーン店を展開している。勤務先は東京本社だが通勤が楽だという理由で一旦は別居していたが、丈一郎の別荘暮らしを機に自宅に戻ってきていた。こちらは、大らかな性格で、給料は全て旅行や美味しい食べ物に使ってしまうようなありさまだった。そして、妻の名は葉子(ようこ)、結婚して三十五年近く経つが、娘達にその性格が二分されたようで、一人で何でもこなしてしまう逞しい人で、丈一郎は現役サラリーマン時代には家事全般をこの妻に任せていたので、二人の子供を育て上げたことと、自分が定年後まで無事仕事に専念できたのは葉子のおかげだと思っていた。そして、妻への罪滅びしではないが、観劇や映画鑑賞、日本百名水や神社仏閣巡りや名湯巡りといった趣味を共にし、現役時代より多くの時間を仲良く過ごしている。彼女は料理上手を生かし、小遣い稼ぎで某市の自宅近くのレストランで接客兼調理補助の仕事をしており、週三回は出勤し元気に働いている。そのせいもあってか、別荘には残念ながら月に一、二回程度しか行けていない。せっかく夫婦で気に入って購入した別荘なのにあまり入り浸れないのは、仕事をしているというのもあるが、それ以上に猫を飼っていることの方が大きいのだ。


 猫は犬と違い神経質なところがあり、家を離れるのを嫌がる。病院に連れて行くのにも逃げ回り一苦労をしていた。ちなみにこの猫は雑種の元保護猫で、雌の多分四歳、体重は猫としても軽い方で三・六キログラム、目がくっきりとしており、顔の頬に当たる部分には歌舞伎役者のようななだらかな模様があり、大きなチャームポイントになっている。葉子は「こんなに可愛い猫は滅多にいないわ」と、親バカならぬ、飼い猫バカでそう信じきってとても可愛がっている。保護猫譲渡会で彼女が一目惚れして、一週間後にまだ引き取り手である『里親』が決まっておらず、同じ猫に再会したときには、彼女は「この子は私たちに貰われるのを待っているのよ!」と、絶対にこの猫を飼うんだという思いに、丈一郎も敢えて抗うつもりは無くなり、「運命の出会いには逆らえない」と、譲渡会当日に譲渡の申し込みをした。 そして十日後、避妊手術やワクチン注射を打ってもらった後に、家猫になった後も葉子が非常に可愛がり、猫もすんなり懐いて夜寝るときも彼女の布団の端で寄り添うように寝ている。実際、丈一郎夫婦にとっては愛猫『エマ』は大事な家族の一員となっている。その猫を別荘に連れて行く準備は丈一郎のささやかなテーマの一つだ。

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