第2話 第二章:拷問
第二章:拷問
雨が降っていた。
カルタージュの夜は、雨が似合う。石畳に叩きつける雨音が路地に反響し、街全体が水の膜に包まれる。街灯の光が濡れた地面に反射し、街はまるで鏡のように二重の姿を映し出す。
ヴィンチェンツォは、路地裏の倉庫に立っていた。
倉庫は使われなくなって久しい。壁は剥がれ、天井からは雨漏りがする。床には水たまりができ、隅には錆びた工具や腐った木材が積まれている。窓はなく、唯一の明かりは天井から吊るされた裸電球だけ。その光は弱々しく、倉庫の半分は影に沈んでいた。
倉庫の中央に、椅子が一つ置かれていた。
椅子に縛られているのは、少年だった。
マルコ・ロッソ。十九歳。痩せた体に、安物のTシャツとジーンズ。顔は青白く、目の下には隈ができている。両手は椅子の背もたれに縛られ、足も椅子の脚に固定されている。彼は動けない。
ヴィンチェンツォは、少年の前に立っていた。
黒いスーツは雨に濡れ、肩から水滴が滴っている。だが彼は気にしない。葉巻を咥え、煙を吐き出す。紫煙が電球の光を横切り、消えていく。
「名前は?」
ヴィンチェンツォの声は、低く、冷たい。
マルコは答えなかった。唇を噛み締め、視線を床に落としている。ヴィンチェンツォは溜息をついた。
「聞いてんだよ」
ヴィンチェンツォの拳が、マルコの頬を打った。
鈍い音が響く。マルコの頭が横に振れ、唾液が飛び散る。だが、マルコは声を上げなかった。ただ、ゆっくりと顔を戻し、再び視線を床に落とす。
ヴィンチェンツォは舌打ちした。
「つまらねえ」
彼は背後を振り返った。倉庫の隅に、ルカが立っていた。銀縁眼鏡は雨粒で曇っているが、彼は拭こうともしない。手には書類が握られている。
「ルカ」
「はい」
「こいつ、誰だ」
「マルコ・ロッソ。ビアンコファミリーのスパイです」
ルカは淡々と答えた。書類をめくり、情報を読み上げる。
「三週間前から、我々の事務所周辺をうろついていました。昨夜、倉庫に侵入しようとしたところを捕獲しました」
「ビアンコの犬か」
「はい」
ヴィンチェンツォは再びマルコを見た。マルコは相変わらず、視線を落としたままだ。
「吐け」
ヴィンチェンツォは冷たく言った。
「ビアンコから何を命令された。何を探してた。誰に報告する予定だった」
マルコは答えなかった。
ヴィンチェンツォは葉巻を床に捨てた。靴で踏み消し、ポケットからナイフを取り出す。刃は短く、よく研がれている。電球の光を反射し、鈍く光った。
「最後だ。吐け」
沈黙。
ヴィンチェンツォは溜息をつき、ナイフをマルコの喉元に当てた。刃が皮膚に触れる。マルコの喉仏が、緊張で上下する。
「……死にてえのか」
「……どうせ、死ぬ」
マルコが、初めて口を開いた。
声は掠れ、震えている。だが、そこには諦めがあった。彼は知っている。ここで捕まった以上、生きて帰れる可能性はない。吐いても、吐かなくても、結末は同じ。
ヴィンチェンツォは、ナイフを引いた。
「……そうかよ」
彼はナイフを仕舞い、代わりにペンチを取り出した。錆びたペンチで、刃の部分は欠けている。だが、十分に使える。
「じゃあ、死ぬ前に、少し遊ぼうぜ」
ヴィンチェンツォは、マルコの口を無理やり開けさせた。マルコは抵抗しようとするが、縄で縛られた体では何もできない。ヴィンチェンツォの指が口の中に入り、舌を掴む。
「動くなよ。舌、噛み切っちまうぞ」
ヴィンチェンツォは、ペンチを舌に当てた。
そして──
*
三十分後。
ヴィンチェンツォは、倉庫の外で煙草を吸っていた。
雨は止んでいた。空には雲が残り、月は隠れている。路地は静かで、遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけ。ヴィンチェンツォは煙草の煙を吐き出し、夜空を見上げた。
「……つまらねえ」
彼は呟いた。
倉庫のドアが開き、ルカが出てきた。彼の白いシャツには、血が飛び散っていた。だが、ルカは気にせず、眼鏡を拭いている。
「ボス」
「なんだ」
「処理、どうしますか」
「……好きにしろ」
ヴィンチェンツォは煙草を捨て、踵を返した。
「あのガキ、気持ち悪ィ。さっさと処分しとけ」
「承知しました」
ルカは一礼し、倉庫に戻った。
*
倉庫の中。
マルコは、椅子に縛られたままだった。
だが、彼の表情は、先ほどまでと全く違っていた。
恍惚としていた。
目は潤み、頬は紅潮し、呼吸は荒い。唇からは涎が垂れ、体は小刻みに震えている。まるで、この世で最高の快楽を味わったかのような表情。
マルコの舌は、中央で二つに裂かれていた。
ヴィンチェンツォがペンチで引き裂いたのだ。血が口から溢れ、シャツを赤く染めている。だが、マルコは痛みを感じていなかった。いや、痛みを感じていたが、それは苦痛ではなく、快楽だった。
両耳には、ピアスが開けられていた。
眉にも、鼻にも、唇にも。ヴィンチェンツォが錐で穴を開け、そこに安全ピンを突き刺した。マルコの顔は血まみれで、まるで拷問された後のよう。
実際、拷問されたのだ。
だが、マルコにとって、それは拷問ではなかった。
「……もっと」
マルコは呟いた。
裂かれた舌で喋るため、言葉は不明瞭だ。だが、その意味は明確だった。
「もっと……痛めつけてくれ……」
ルカは、マルコの前に立った。
彼は眼鏡の奥の目で、マルコを観察する。冷静に、分析的に。そして、小さく溜息をついた。
「……なるほど」
ルカは縄を解いた。マルコは自由になったが、立ち上がろうとしない。ただ、椅子に座ったまま、ルカを見上げている。
「君は、特殊だ」
ルカは静かに言った。
「痛みを、快楽として認識する。おそらく、生まれつきの体質だろう。そして今、ボスに痛めつけられたことで、その性癖が完全に開花した」
マルコは答えなかった。ただ、潤んだ目でルカを見つめている。
「君は、ボスに恋をした」
ルカの言葉に、マルコの体が震えた。
「違う、恋ではない。崇拝だ。君はボスを、神のように崇拝している。そして、ボスのためなら何でもする。そうだろう?」
「……ああ」
マルコは頷いた。
裂かれた舌で、血を吐きながら、彼は笑った。
「ボスは……俺の……全てだ……」
ルカは眼鏡を外し、レンズを拭いた。そして、再び眼鏡をかけ、マルコに手を差し伸べた。
「立て」
マルコは手を取り、立ち上がった。足元はふらついているが、なんとか立っている。
「君を、処分する気はない」
ルカは言った。
「君は、使える。ボスのために、働いてもらう」
「……本当か?」
「ああ」
ルカは頷いた。
「ただし、条件がある。君は今から、私の下で訓練を受ける。戦闘技術、暗殺技術、諜報技術。全てを叩き込む。そして、ネーロファミリーの最強の兵士になる」
「……やる」
マルコは即答した。
「ボスのためなら、何でもやる」
「結構」
ルカは微笑んだ。その微笑みは、どこか冷たく、計算的だった。
「では、今夜から始めよう」
*
三週間後。
カルタージュの港に、一隻の船が停泊していた。
船は古く、船体には錆が浮いている。だが、その船はビアンコファミリーの密輸船だった。船倉には、違法な武器や麻薬が積まれている。今夜、それらはカルタージュに陸揚げされ、裏市場に流される予定だった。
だが、その計画は実行されなかった。
船は、炎に包まれていた。
爆発が起こり、船体が真っ二つに折れている。炎は夜空を赤く染め、煙が立ち上る。港には消防車と警察が駆けつけているが、もう手遅れだった。
港の倉庫の屋上に、一人の男が立っていた。
マルコだった。
彼は全身黒ずくめの戦闘服を着て、肩には自動小銃を担いでいる。顔には血が飛び散り、手には短剣が握られている。彼の足元には、三人の遺体が転がっていた。ビアンコファミリーの構成員たちだ。
マルコは炎を見つめていた。
そして、笑った。
「ボスのために……」
彼は呟いた。
裂かれた舌で喋るため、言葉は奇妙に聞こえる。だが、そこには狂気と、歓喜があった。
「俺は……何でもする……」
マルコは屋上から飛び降り、闇に消えた。
*
翌朝。
ヴィンチェンツォは、新聞を読んでいた。
一面には、港で起きた爆発事故の記事が載っている。ビアンコファミリーの密輸船が爆発し、構成員三人が死亡。警察は事故として処理しているが、裏社会では別の噂が流れていた。
ネーロファミリーの仕業だ、と。
ヴィンチェンツォは新聞を置き、コーヒーを飲んだ。苦い味が口の中に広がる。彼は窓の外を見た。朝日が、街を照らしている。
「ボス」
ルカが部屋に入ってきた。手には書類が握られている。
「報告です」
「なんだ」
「ビアンコファミリーの密輸ルートを、完全に潰しました」
ヴィンチェンツォは眉を上げた。
「誰がやった」
「マルコです」
「……あのガキか」
ヴィンチェンツォは思い出した。三週間前、倉庫で拷問した少年。気持ち悪い奴だった。痛めつけても悲鳴を上げず、それどころか恍惚とした表情を浮かべていた。
「まだ生きてたのか」
「はい。彼は非常に有能です」
ルカは書類を開いた。
「三週間の訓練で、射撃、格闘、爆破、諜報、全ての技術を習得しました。そして昨夜、単独でビアンコファミリーの密輸船を襲撃し、構成員三人を殺害、船を爆破しました」
「……ふン」
「彼は、ボスに絶対的な忠誠を誓っています。痛みへの耐性も異常で、通常の人間なら気絶するような攻撃でも、彼は動き続けます。まさに、一騎当千の兵士です」
ヴィンチェンツォはコーヒーを飲み干した。カップを置き、溜息をつく。
「……まあいい」
「今後も、彼を活用しますか?」
「好きにしろ」
ヴィンチェンツォは椅子から立ち上がった。窓の外を見る。港の方角に、煙が立ち上っているのが見える。
「あのガキ、使えるなら使え。使えねえなら捨てろ」
「承知しました」
ルカは一礼し、部屋を出ていった。
*
ヴィンチェンツォは、一人で窓の外を見ていた。
街は、いつもと変わらない。観光客が石畳の路地を歩き、店が開き、人々が生活している。表の世界は平和で、裏の世界は血と暴力に満ちている。
それが、カルタージュだった。
ヴィンチェンツォは葉巻に火をつけた。煙を吸い込み、吐き出す。窓ガラスに煙が当たり、霧のように広がる。
「……つまらねえ」
彼は呟いた。
拷問しても、殺しても、何も変わらない。敵は次から次へと現れ、戦いは終わらない。そして、自分が痛めつけた少年は、なぜか最強の兵士になっている。
ヴィンチェンツォには、理解できなかった。
だが、彼は考えるのをやめた。考えても、答えは出ない。それに、考えることは、つまらない。
彼はただ、生きる。
この街の闇の中で、極悪非道のマフィアとして。
*
路地の影で、ベルゼブブは全てを見ていた。
倉庫での拷問。
マルコの訓練。
港での爆発。
悪魔は、混乱していた。
拷問は、明らかに悪行だ。少年を痛めつけ、体を傷つけ、心を壊す。それは紛れもない悪だ。ベルゼブブは確信していた。これこそが、成敗すべき悪だと。
だが。
結果は、予想と全く違っていた。
拷問された少年は、壊れなかった。それどころか、強くなった。そして今、彼はネーロファミリーの最強の兵士として、敵対組織を壊滅させている。
ベルゼブブは、自分の角を掴んだ。
いや、角はもうなかった。マルコに引きちぎられたのだ。あの時から、ベルゼブブの人生は狂い始めた。
「拷問……そして、忠誠?」
悪魔は呟いた。
論理が、破綻している。拷問は憎しみを生むはずだ。復讐心を生むはずだ。だが、マルコは憎んでいない。復讐しようともしていない。それどころか、ヴィンチェンツォを崇拝している。
「……俺の知ってる『悪』と、何かが違う」
ベルゼブブは空を見上げた。
雲が流れ、月が顔を出す。月明かりが、路地を照らす。ベルゼブブの影が、石畳に伸びる。
契約は、まだ続いている。
「この世にはびこる悪を、成敗せよ」
だが、悪は、どこにいる?
ヴィンチェンツォは、悪なのか?
それとも──
ベルゼブブは、まだ答えを見つけられなかった。
*
数日後。
ビアンコファミリーの本部が、襲撃された。
深夜、何者かが本部に侵入し、構成員十人を殺害。金庫を破り、資金と書類を全て奪った。監視カメラには、黒ずくめの男が映っていた。
マルコだった。
彼は単独で、ビアンコファミリーの本部を壊滅させた。そして、奪った資金と書類を、全てネーロファミリーに引き渡した。
ビアンコファミリーは、事実上、崩壊した。
ボスは逃亡し、構成員は散り散りになった。カルタージュの裏社会における勢力図は、大きく塗り替わった。そして、その頂点に立つのは──
ネーロファミリー。
ヴィンチェンツォ・ネーロ。
彼は、この街の絶対的な支配者となった。
*
ヴィンチェンツォは、高級レストランで食事をしていた。
向かいには、ルカが座っている。彼は相変わらず、書類を広げて報告をしていた。
「ビアンコファミリーは壊滅。ロッソファミリーは我々に従属。カルタージュの裏社会は、完全に我々の支配下です」
「ふン」
ヴィンチェンツォはステーキを切り分けた。肉汁が皿に広がる。
「マルコの働きは、予想以上でした」
「……あのガキか」
「はい。彼は現在、我々の最強の兵士です。今後も、重要な任務に投入します」
ヴィンチェンツォは、ワインを飲んだ。
グラスを置き、窓の外を見る。レストランの窓からは、港が見える。夜の港は静かで、船の明かりが水面に反射している。
「……つまらねえな」
「はい」
ルカは頷いた。
「ですが、これで街は安定します」
「安定? つまらねえ」
ヴィンチェンツォは葉巻に火をつけた。煙を吐き出し、天井を見上げる。
「敵がいねえ街なんて、つまらねえ」
「では、新しい敵を作りますか?」
「……いや、いい」
ヴィンチェンツォは溜息をついた。
「どうせ、またつまらねえ結果になる」
ルカは微笑んだ。その微笑みは、ヴィンチェンツォには見えなかった。
*
その夜。
マルコは、ネーロファミリーの訓練場にいた。
訓練場は地下にあり、壁はコンクリートで、床には血の染みが残っている。マルコは一人で、サンドバッグを殴っていた。
拳がサンドバッグに叩き込まれる。
一発、また一発。
マルコの拳は血まみれだった。皮膚は破れ、骨が見えている。だが、彼は止めない。痛みは、彼にとって快楽だった。
「ボスのために……」
マルコは呟いた。
裂かれた舌で、血を吐きながら。
「俺は……もっと強くなる……」
彼は笑った。
狂気に満ちた、歓喜の笑み。
マルコ・ロッソは、もう元の少年ではなかった。彼は生まれ変わったのだ。ヴィンチェンツォ・ネーロに拷問されたあの日、彼は新しい自分になった。
そして今、彼は最強だった。
*
ベルゼブブは、訓練場の外でそれを見ていた。
悪魔は、もう何も言わなかった。
ただ、呆然と立ち尽くしている。
拷問は、悪だ。
だが、その結果は、善だった。
少年は強くなり、敵は滅び、街は安定した。
これは、悪行なのか?
それとも──
ベルゼブブは、頭を抱えた。
「……もう、分からん」
悪魔は呟いた。
そして、次の場所へ向かうことにした。
もっと観察しなければならない。
もっと証拠を集めなければならない。
ヴィンチェンツォ・ネーロが、本当に悪なのか。
それを、確かめるために。
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