極悪非道マフィアのつもりなのに、やること全てが裏目に出ます。
@kossori_013
第1話 プロローグ:召喚 第一章:老婆
極悪非道
プロローグ:召喚
廃工場の地下に、血の臭いが満ちていた。
鉄錆と腐敗臭が混ざり合い、喉の奥に張り付く。床に描かれた魔法陣は、人間の血液で丁寧に、狂気的なまでに几帳面に引かれている。円の内側に刻まれた文字は古代の言語で、読めば正気を失うと言われる禁忌の呪文だった。
魔法陣の中心に、ディノ・パレルモが立っていた。
かつて彼は成金として名を馳せた。金融で財を成し、不動産で富を築き、この国の上流階級に食い込もうとした。だがバブルは弾け、投資は失敗し、会社は倒産した。妻は去り、子供は縁を切り、友人は一人残らず背を向けた。
ディノは全てを失った。
金も、名誉も、家族も、未来も。
残ったのは、恨みだけだった。
「この世は、間違っている」
ディノの声が、地下室に反響する。魔法陣の周囲には、十三の遺体が転がっていた。ホームレス、娼婦、薬物中毒者。社会の底辺で生きていた者たちが、今は冷たい肉塊として床に散らばっている。彼らの血が、魔法陣を満たしていた。
「才能ある人間が没落し、悪人がのさばる。この世界は、狂っている」
ディノは懐から短剣を取り出した。刃は儀式用に研がれ、月明かりを反射して鈍く光る。彼は自分の左手首に刃を当てた。
「だから、正さねばならない」
刃が皮膚を裂く。
血が溢れ、魔法陣に滴り落ちる。ディノの血が、他の犠牲者たちの血と混ざり合った瞬間、魔法陣が光を放った。赤く、禍々しく、見る者の目を焼くような光。
地下室に、風が吹いた。
どこからともなく吹き込む風は、硫黄の臭いを運んでくる。地獄の底から這い上がってきたような、腐った卵を何千個も腐らせたような悪臭。ディノは吐き気を堪えながら、呪文を唱え続けた。
「我が魂を代償に、契約を結ぶ。この世にはびこる悪を、成敗せよ」
魔法陣の中心から、黒い煙が立ち上る。
煙は渦を巻き、人の形を成していく。角が生え、尻尾が伸び、スーツ姿の中年男性が姿を現した。上級悪魔ベルゼブブ。地獄の階層において上位に位置する存在が、この現世に召喚された。
ベルゼブブは周囲を見渡した。遺体、血、魔法陣。そして、血まみれで立つディノ。悪魔は小さく溜息をついた。
「……つまらない仕事だ」
ディノの体が、崩れ落ちた。契約は成立した。術者の魂は悪魔に奪われ、その代償として、悪魔は契約を遂行しなければならない。ディノの肉体は地面に倒れ、もう二度と動くことはない。
ベルゼブブは死体を一瞥し、踵を返した。
「この世にはびこる悪、か」
悪魔は地下室の階段を上り、廃工場の外へと出た。夜風が頬を撫でる。遠くに見える街の明かりが、まるで地上の星のように瞬いていた。
港町カルタージュ。
古い石畳の路地が迷路のように入り組み、昼は観光客で賑わうが、夜になれば裏社会が動き出す街。この街を実質的に支配しているのは、三つのマフィアファミリー。そして、最も恐れられているのが──
「ヴィンチェンツォ・ネーロ、か」
ベルゼブブは、この街で最も悪名高い男の名を口にした。
悪魔の目には、血と硝煙に染まった港町が映っていた。
第一章:老婆
朝の光が、石畳の路地を照らしていた。
カルタージュの旧市街は、中世の面影を色濃く残している。両側に立ち並ぶ建物は風化した石造りで、壁には蔦が這い、窓からは洗濯物が垂れ下がっている。路地は狭く、二人がすれ違うのがやっとの幅しかない。観光客はこの迷路のような街並みに魅了されるが、地元民は近道として、あるいは人目を避ける場所として利用する。
ヴィンチェンツォ・ネーロは、その路地を歩いていた。
黒いスーツは仕立ての良いもので、シャツは真っ白、ネクタイは深紅。靴は磨き上げられ、朝日を反射している。彼の黒髪は丁寧に撫でつけられ、鋭い目つきは周囲を威圧する。口には葉巻が咥えられ、紫煙が朝の空気に溶けていく。
二十八歳。ネーロファミリーの若頭。
この街で最も恐れられる男。
ヴィンチェンツォの後ろを、一人の男が歩いていた。ルカ・グリージョ。銀縁眼鏡をかけた三十歳の男で、彼もまたスーツを着ている。ヴィンチェンツォのものほど派手ではないが、仕立ては同じく完璧だ。ルカは手帳を開き、今日の予定を確認していた。
「ボス、午後にロッソファミリーとの会合があります」
「つまらねえ」
ヴィンチェンツォは吐き捨てるように言った。葉巻の灰が、石畳に落ちる。
「夜は裏カジノの視察、その後──」
「全部つまらねえ」
「承知しました」
ルカは手帳を閉じた。彼の表情は常に冷静で、何を考えているのか読み取れない。ヴィンチェンツォの側近として五年。その間、彼はどんな無茶な命令も、どんな理不尽な要求も、全て完璧にこなしてきた。
路地の角を曲がると、前方に人影が見えた。
物乞いの老婆だった。
ぼろ布を纏い、腰は曲がり、杖にすがって歩いている。顔は皺だらけで、目は濁り、口元からは歯が数本しか見えない。彼女は路地の真ん中をゆっくりと横切ろうとしていた。
ヴィンチェンツォは立ち止まらなかった。
そのまま、真っ直ぐ歩き続ける。老婆が彼の進路上にいることなど、意に介さない。老婆は慌てて道を譲ろうとしたが、腰が曲がった体では素早く動けない。杖が石畳に引っかかり、よろめいた。
老婆の肩が、ヴィンチェンツォのスーツに触れた。
ほんの一瞬、ほんの僅かな接触。だがそれで十分だった。老婆の服に付いていた埃が、ヴィンチェンツォの黒いスーツに付着する。小さな、取るに足らない汚れ。だが、ヴィンチェンツォにとっては許しがたいことだった。
彼は立ち止まった。
ゆっくりと、老婆の方を向く。葉巻を口から外し、その場に捨てた。靴で踏み消す。紫煙が細く立ち上り、消える。
「……てめえ」
声は低く、冷たい。
老婆は震えた。彼女の濁った目に、恐怖が浮かぶ。この街で生きる者なら誰でも知っている。ヴィンチェンツォ・ネーロという名前を。そして、彼に逆らえば何が起こるかを。
「す、すみま──」
老婆の謝罪は、途中で途切れた。
ヴィンチェンツォの足が、老婆の腹部に突き刺さった。容赦ない蹴り。老婆の体は宙に浮き、そして路地の壁に叩きつけられた。鈍い音が響く。老婆は呻き声を上げ、地面に崩れ落ちた。
「……汚ェんだよ」
ヴィンチェンツォはスーツの肩を払った。埃が落ちる。彼は満足したように頷き、再び歩き始めた。老婆には一瞥もくれない。
ルカは老婆の横を通り過ぎる際、ちらりと視線を向けた。老婆は地面に倒れたまま、苦しそうに呼吸している。ルカは表情を変えず、ヴィンチェンツォの後を追った。
「ボス」
「なんだ」
「あの老婆、どうしますか」
「放っとけ。勝手に死ぬだろ」
「承知しました」
二人は路地を抜け、大通りへと出た。
朝日が、二人の影を長く伸ばしていた。
*
老婆エレオノーラ・サルヴァトーレは、地面に倒れたまま動けなかった。
腹部に鋭い痛みが走り、背中は壁に叩きつけられた衝撃でしびれている。呼吸をするたびに肋骨が軋み、視界が霞む。彼女は杖にすがりながら、なんとか体を起こそうとした。
だが、起き上がれなかった。
腰が、動かない。
エレオノーラは六十五歳だった。若い頃、彼女は色街でナンバーワンの娼婦として名を馳せた。美貌と知性を兼ね備え、政治家や実業家を虜にした。だが彼女の性格は苛烈で、他の娼婦たちと衝突し、やがて色街を追い出された。
それからの人生は、転落の連続だった。
美貌は衰え、客は離れ、金は尽きた。体は老い、腰は曲がり、今では物乞いとして路地を彷徨う日々。誰も彼女を見ない。誰も彼女を助けない。彼女はこの街の影で、静かに朽ちていくはずだった。
エレオノーラは目を閉じた。
もう、終わりだ。
そう思った瞬間、何かが変わった。
痛みが、消えた。
腹部の鋭い痛みも、背中のしびれも、全て消えた。それどころか、長年悩まされていた腰の痛みまで消えている。エレオノーラは驚いて目を開けた。
体が、軽い。
彼女は杖なしで立ち上がった。腰は真っ直ぐ伸び、背筋が通っている。手足に力が漲り、視界は明瞭になった。まるで、何十年も巻き戻されたかのよう。
エレオノーラは自分の手を見た。
皺だらけだった手が、滑らかになっている。シミは消え、肌には張りがある。彼女は慌てて路地の水たまりに顔を映した。
そこに映っていたのは、三十代の女性だった。
かつての美貌が、蘇っていた。
エレオノーラは呆然と立ち尽くした。何が起こったのか理解できない。だが、体は確かに若返っている。力が漲り、心臓は力強く鼓動し、肺は深く息を吸い込む。
彼女は、蹴られたのだ。
ヴィンチェンツォ・ネーロに。
あの蹴りが、何かを変えた。
エレオノーラは思い出した。蹴られた瞬間、腹部に熱が走った。それは痛みではなく、むしろ心地よい温もりだった。その温もりが体中に広がり、骨を、筋肉を、内臓を、全てを癒していった。
「……なんてことだ」
エレオノーラは呟いた。
あの男は、ツボを蹴ったのだ。中国四千年の歴史を誇る、伝説の秘孔。それも、若返りの効果があるという幻の経絡。偶然にも、完璧な角度で、完璧な力加減で蹴られたのだ。
エレオノーラは笑った。
最初は小さく、やがて大きく。路地に彼女の笑い声が響く。
「まさか、こんな形で……」
彼女は立ち上がり、杖を捨てた。もう必要ない。彼女は路地を歩き出した。歩調は軽く、背筋は伸びている。かつての自信が、蘇ってきた。
エレオノーラ・サルヴァトーレは、この日から変わった。
若さと美貌を取り戻した彼女は、再び街に出た。だが今度は、色街ではなく、表の世界へ。彼女は持ち前の知性と弁舌で、あっという間に街の女性たちのリーダーとなった。
女性の権利、労働環境の改善、社会的弱者の保護。
エレオノーラはそれらを訴え、支持を集めた。彼女の演説は人々の心を掴み、彼女の行動は社会を動かした。そして、半年後。
彼女は国政選挙に出馬し、当選した。
*
ヴィンチェンツォは、高級レストランで昼食を取っていた。
店内は薄暗く、シャンデリアが柔らかい光を落としている。テーブルクロスは真っ白で、銀の食器が整然と並んでいる。ヴィンチェンツォはステーキを切り分けながら、ワインを飲んでいた。
向かいの席に、ルカが座っている。彼は書類を広げ、報告をしていた。
「ロッソファミリーとの会合は無事終了しました。彼らは我々の提案を受け入れました」
「当然だ」
ヴィンチェンツォはステーキを口に運んだ。肉は柔らかく、口の中で溶ける。
「ビアンコファミリーからも連絡がありました。彼らは中立を保つとのことです」
「腰抜けどもが」
「はい」
ルカは書類を閉じた。そして、少し間を置いてから、口を開いた。
「ボス、一つ報告があります」
「なんだ」
「今朝、蹴り飛ばした老婆ですが」
ヴィンチェンツォは手を止めた。葉巻を取り出し、火をつける。紫煙が天井に向かって立ち上る。
「死んだか」
「いえ」
ルカは眼鏡を直した。
「国会議員になりました」
ヴィンチェンツォの手が、止まった。
葉巻を咥えたまま、彼はルカを見た。ルカは表情を変えず、淡々と続ける。
「エレオノーラ・サルヴァトーレ。今朝、ボスが蹴り飛ばした老婆です。彼女は奇跡的に若返り、女性の権利回復運動のリーダーとして頭角を現しました。そして先日の国政選挙で、トップ当選を果たしました」
「……は?」
「彼女は現在、国会で女性の労働環境改善法案を提出しています。支持率は七十パーセントを超えており、次期首相候補とも目されています」
ヴィンチェンツォは葉巻を灰皿に置いた。
彼は椅子に深く座り直し、天井を見上げた。しばらく沈黙が続く。レストランのざわめきだけが、静かに響いている。
「……つまらねえ」
ヴィンチェンツォは呟いた。
ルカは頷いた。
「はい」
「あのババア、死ななかったのか」
「はい」
「国会議員になったのか」
「はい」
「……つまらねえ」
ヴィンチェンツォは再び葉巻を手に取った。火をつけ直し、深く吸い込む。煙を吐き出し、溜息をついた。
「もういい。飯を食う」
「承知しました」
ルカは書類を鞄にしまった。そして、小さく微笑んだ。その微笑みは、ヴィンチェンツォには見えなかった。
*
路地の影から、一人の男がその光景を見ていた。
ベルゼブブ。
上級悪魔は、朝からヴィンチェンツォを追っていた。この街で最も悪名高い男。最も恐れられるマフィアの若頭。彼こそが、成敗すべき「悪」だと確信していた。
そして、ベルゼブブは目撃した。
老婆を蹴り飛ばす場面を。
あれは紛れもない暴力だった。弱者への一方的な攻撃。正当な理由など何もない、純粋な悪意の発露。ベルゼブブは確信した。ヴィンチェンツォ・ネーロこそが、この街の、いや、この世界の「悪」だと。
だが。
数日後、ベルゼブブは新聞を読んだ。
一面に、エレオノーラ・サルヴァトーレの写真が載っていた。「奇跡の当選、女性の希望」という見出しが躍っている。記事には、彼女がどのようにして国政選挙に出馬し、どのようにして圧倒的支持を集めたかが書かれていた。
ベルゼブブは記事を読み、そして老婆の写真を見た。
あの、路地で蹴り飛ばされた老婆だ。
間違いない。
だが、新聞に載っている彼女は、若々しく、美しく、力強い目をしていた。まるで別人のよう。いや、別人になっていた。
ベルゼブブは新聞を置いた。
そして、空を見上げた。
「……なるほど。こいつが、この街の悪か」
悪魔は呟いた。
だが、その声には確信がなかった。
老婆を蹴り飛ばした男が、悪でないはずがない。だが、その結果、老婆は若返り、国会議員になった。これは、悪行なのか? それとも──
「……何かが、おかしい」
ベルゼブブは首を傾げた。
契約は明確だ。「この世にはびこる悪を、成敗せよ」。だが、目の前で起きている現象は、契約の内容と食い違っている。
悪魔は再び、ヴィンチェンツォを追うことにした。
もっと観察しなければならない。
もっと証拠を集めなければならない。
この男が本当に「悪」なのか、それを確かめるために。
ベルゼブブは影に溶け、街へと消えていった。
*
その夜、ヴィンチェンツォは裏カジノにいた。
カジノは旧市街の地下にあり、入り口は酒場の奥の隠し扉。階段を降りると、煙草の煙と酒の臭いが充満した空間が広がっている。ルーレット、ブラックジャック、ポーカー。様々なテーブルが並び、客たちは金を賭けて遊んでいる。
ヴィンチェンツォはバーカウンターに座り、ウイスキーを飲んでいた。グラスの中で氷が溶け、琥珀色の液体に混ざる。彼は一口飲み、葉巻に火をつけた。
「ボス」
背後から声がかかった。振り返ると、カジノのマネージャーが立っていた。太った中年男で、額には汗が滲んでいる。
「なんだ」
「本日の売上ですが、先月比で二十パーセント増です」
「ふン」
ヴィンチェンツォは興味なさそうに返事をした。マネージャーは続ける。
「ロッソファミリーの客が流れてきています。彼らの縄張りが縮小したため、こちらに──」
「つまらねえ話だ」
ヴィンチェンツォは葉巻の灰を、マネージャーのシャツに落とした。マネージャーは慌てて灰を払う。
「も、申し訳ございません」
「もういい。消えろ」
「はい」
マネージャーは一礼し、足早に去っていった。
ヴィンチェンツォは再びウイスキーを飲んだ。グラスを置き、溜息をつく。
「……つまらねえ」
彼は呟いた。
本当に、つまらない。
老婆を蹴り飛ばしても、死なない。それどころか国会議員になる。敵対ファミリーを潰しても、次から次へと新しい敵が現れる。女を抱いても、すぐに飽きる。
ヴィンチェンツォは椅子から立ち上がった。
カジノを出て、階段を上り、酒場へと戻る。外の空気は冷たく、肺に染み込む。彼は路地を歩き出した。
月明かりが、石畳を照らしていた。
ヴィンチェンツォの影が、長く伸びている。その影の中に、もう一つの影が潜んでいた。
ベルゼブブは、今夜も彼を見ていた。
悪魔の目には、疑問が浮かんでいた。
この男は、何者なのか。
悪なのか。
それとも──
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