第6章 城壁を越える風

朝のルッカは霧に包まれていた。

鐘楼の影がぼやけ、石畳が淡く濡れている。

霧の向こうから鐘が鳴ると、

音が霧を割って、光の筋のように街を貫いた。


リーヴォは青いスケッチ帳を抱え、

城壁の門へ向かって歩いていた。

肩に、見えない羽音の気配を感じながら。


「ピッコロ、外の音って、どんなのかな。」

風が彼の髪を揺らした。

それが返事のようだった。


霧の中を抜けると、葡萄畑の匂いがした。

朝露を抱いた葉が風に揺れ、

その間を小道が丘の上へと続いている。


丘に上がると、ルッカの街全体が見えた。

円形の城壁、尖る塔、屋根の赤。

まるで誰かの掌の上に乗った模型のようだった。

鐘が再び鳴る。

音は、壁にぶつからずに広がっていった。


リーヴォは腰を下ろし、スケッチ帳を開く。

霧の向こうで光が白く揺れ、

その揺らぎが紙の上に映る。


青い鉛筆が走る。

線がゆるやかに波打ち、丘から街へと戻る。

「……音が見える。」

彼は小さく呟いた。

「うねってる。風と一緒に、街の外へ出ようとしてる。」


紙の上の線が風に揺れ、

描かれた円が少しずつ外側へ広がる。

「鐘って、街の中だけのものじゃないんだね。」

風が答えるように鳴った。


「そうだよ。」

その声が聞こえた気がした。

ピッコロの声ではない。

風の中に溶けた、やさしい残響だった。



霧の向こうから、二つの影が現れた。

キアーラとロレンツォだ。

彼らもまた、風に導かれるように丘を登ってきた。


「ここにいたのね。」キアーラが笑う。

「街が丸ごと鏡になってるみたい。」

ロレンツォは空を見上げた。

「風が輪を描いてる……鐘の音の通り道だ。」


リーヴォは紙を差し出す。

そこには円がいくつも重なり、

中央のルッカから外へと、波紋のように広がっていた。


ロレンツォが息を呑む。

「これは、鐘の数だ。六度までが街の内側、七度目が外へ。」

キアーラが頷く。

「未来へ返す鐘……ルッカの外に響く音。」


風が強く吹き抜けた。

街の方角から鐘が鳴り響く。

一度、二度、三度――

音が霧を押し広げ、丘の上に光が走る。


四度、五度、六度。

街の輪郭が現れ、空が金に染まる。

そして――七度目の音。


世界が少しだけ震えた。

音が丘を越え、さらに遠くへ流れる。

アルノの方角、

その先にはフィレンツェの空があった。


キアーラが目を細めた。

「聴こえる? あの高さ……フィレンツェの鐘と同じ。」

ロレンツォが頷く。

「街が呼び合ってる。」


リーヴォは鉛筆を握りしめ、最後の線を引いた。

紙の端から端へ、光のような白い線。

それが六つの円をつなぎ、最後に小さな点を残した。


「できた……これが、音の地図。」


キアーラはその紙を見て微笑んだ。

「リーヴォ、それは“未来の約束”よ。」

「約束?」

「ええ。過去を赦すことじゃなく、

 これからを信じること。」


ロレンツォがその中央の点を指す。

「この空白は、次の鐘の場所だ。」

リーヴォは空を見上げた。

「じゃあ、僕がその鐘を描くよ。」


風がまた吹く。

鐘が六度、七度と重なり、

ルッカの街がひとつの楽器のように鳴った。

霧が晴れ、遠くの塔が金色に光る。


リーヴォは目を細めた。

風の中に、見えない翼の気配がした。

“ピッコロ……?”

風が答える。


――もう、空は君のものだよ。


丘の上で、少年は笑った。

紙の上の線が風に舞い、

未来の地図が朝の光の中で揺れていた。

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