【助手】の回想――地点:不明
***
それは、【探偵】と呼ばれる男との共同生活が始まって、数日が過ぎた頃だった。
「ルリ、私たちはこの事務所を拠点として、探偵業を営むことになる」
「……探偵業?」
【探偵】とルリは、事務所である、古びた館に足を踏み入れた。
9歳のルリは、目の前の男、すなわち【探偵】を、依然として警戒していた。いや、警戒というよりは、侮蔑に近い。
「ああ。分かりやすく言えば、逃げた飼い猫を探すとか、迷い人を捜すとか、とにかく、誰かの『困った』を『助かった』に変える仕事だ」
子供にも理解できるように噛み砕かれたその説明は、当時のルリには、己を格下と見なしている証拠のように響いた。
ルリの出自——孤独な生活と、それによって培われた冷酷な現実感覚——を、この男がまだ十分に推測できていなかったがゆえの、配慮の欠けた言葉だった。
もし知っていたなら、【探偵】も別の言葉を選んだかもしれない。あるいは、この運命的なやり取りは、別の結末を迎えたか。
「そんなの、ただの自己満足でしょう」
ルリの目に、無償の善意は常に疑わしいものだった。それは、自分が身を置いていた世界では存在し得ない、嘘っぱちの概念に過ぎない。
「まあ、そうだな、ルリ。お前の言う通り、この仕事の動機はほとんどが自己満足で片付けられる」
【探偵】は、困ったように左手首の古びた腕時計の縁を、人差し指で静かになぞった。
「だが、その自己満足によって、誰かが心から救われるのなら。それが、何より嬉しいことじゃないか。その悦びのために、私はここにいる」
その言葉は、ルリの苛立ちをさらに煽った。この男の、常に余裕を湛えた態度と、自己犠牲を厭わないような口上が、ルリの築き上げた世界の価値観を揺るがすようで、不快だった。
ルリはその後、完全に彼の話を無視し始めた。
「ルリ。私と君は、これからパートナーになる。信頼関係は、仕事の基盤だ。私のことをすぐには信頼できないかもしれない。だったら、言葉ではなく、私の働きっぷりで判断してみてくれないか?」
「……働きっぷり?」
そこで、ようやくルリの視線が【探偵】を捉えた。
「ああ。君の依頼を、何か一つ、叶えてみせよう。そして、その仕事内容に君が心から満足できたなら、私の助手として、しっかり働いてもらう。どうだ?」
9歳のルリは、その申し出に、好戦的な笑みを浮かべた。
無理難題を突きつけ、この余裕綽々とした男の顔を、なんとか苦痛に歪ませてやりたい。その一心で、ルリは取引を承諾した。
しかし、いざ悪意に満ちた依頼を考えようとすると、名案は浮かばない。
それよりも、ルリの胸には、もっと切実で、解決できていない一つの感情があった。
一時間近く頭を悩ませた後、ルリは意地悪とは全く関係なく、本当に、心底、解決を願っていたことを【探偵】に伝えた。
「パン屋の主人に、謝りたい?」
【探偵】は、意外というよりは、面食らったような素っ頓狂な声を出した。だが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべ、
「よし。じゃあ、すぐに行こうか」
と、迷うことなくシルクハットを被り、事務所の重い扉を開け放った。
事務所から出て数分。ルリがかつて、空腹を満たすために何度も盗みを働いたパン屋を訪れたが、目の前の光景に、二人揃って言葉を失った。
「これは……」
「お店が……ない」
パン屋は——いや、パン屋のあった場所は、真新しい更地になっていた。
「おお、【探偵】さん、何か、ここに御用かい?」
呆然とする二人の背後から、近所に住むらしい中年の男の声がかけられた。
「あの、ここのパン屋の店主はどこへ?」
「ああ。店の爺さん、もう歳も歳だからって、故郷に店を移すらしいぜ。隠居に近いもんだろ。土地も売って、昨日にはもう引っ越しちまったよ」
「そんな……」
【探偵】の顔は、苦痛に深く歪んだ。望まぬ形で、ルリの思惑は達成されてしまったのだ。
しかし、ルリは自身の依頼に、どんなに取るに足らない子供の依頼であろうとも、彼は真摯に向き合ってくれていたのだと悟った。
「私の……せいだ」
その時、ルリの目から、言葉と同時に熱い涙がこぼれ落ちた。
「私が、あんなに、盗みを繰り返してたから……」
それでも、あのお爺さんは、全てを知っていたはずなのに、ただニコリと微笑むだけだった。その、底なしの優しさに、ルリは、ただただ甘えていた。
それを見て、【探偵】は、静かに微笑みながら、ルリの小さな頭を優しく撫でた。
「そう思える、その心を、君が持っていて良かった」
ルリはまだ熱いまぶたを、必死に抑える。
「やはり、私の助手には、君しかいない。私は【探偵】だ。今、君の依頼を果たすことは叶わなかったが——必ず、いつか、この依頼を完遂する。だから、ルリ」
【探偵】はそこで一呼吸置き、ルリの瞳を真っ直ぐに見つめた。
それは、ルリがこれまで向けられてきた、子供を見るような憐憫や、疎ましさを含んだ視線とは全く違った。
ただ一人の人間、対等なパートナーを見る目だった。
そして、【探偵】は静かに宣言する。
この日、全てが始まった。
「私の、助手になってくれないか?」
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