現在・四月――【探偵】処刑後の世界

助手①

***


 彼女――ルリ・ストルムは、家の近くのカフェへと足を運んだ。


 5月。【探偵】が死んでから、数週間。

 通りを吹き抜ける初夏の風は、生温いのにどこか金属めいた匂いがした。

 この街は、探偵が処刑された日からわずか数週間で、景色は同じなのに、空気だけが別物になってしまったようだった。


 彼が死んで、もう何度目の来店だろう。彼女は数えるのもやめてしまった。


 人混みに紛れても嫌でも目を引く、漆黒のロングヘア。そこに挿した赤いリボンが、燃えるような差し色になっていた。灰色を基調としたワンピースは質素だが、どこか凛とした上品さを帯びている。

 気づけば、ルリの姿はこの街の象徴めいた存在になっていた。


 十七年の人生を振り返れば、そのほぼ半分――約八年間を、あの【探偵】と過ごしていたのだと、今さらのように気づく。


 それでも、彼女は寂しさに沈むことはなかった。

 かつては、探偵が死ねば自分は泣き崩れるだろうと思っていたのに。

 実際にその時が来ても、涙どころか、心はひどく静かだった。


 理由は単純だった。

 どうしても【探偵】が死んだとは、思えなかったのだ。


 八年間で見てきた彼の頭脳、奇行、そして常軌を逸した冴え。

 そのすべてが、彼を「死」という凡庸な終わりから遠ざけているように思えた。


 テラス席に腰を下ろし、冷めかけた空気のなかでコーヒーを啜る。

 湯気は薄く揺れて、風に溶けるように消えていく。その消える様子が、どうしてか“人の痕跡”のように思えて、胸の奥がひどくざわついた。

 苦味が舌に広がると共に、彼との日々が脳裏に浮かび上がる。


 【探偵】は、どんな事件でも、どんな不可能でも、推理し、必ず解決へ導いてきた。

 それを一番近くで見てきたのは、この世界でもきっと彼女だけだ。


 ――それでも、現実として、探偵は「死んでいる」。

 その報せは街に重苦しい影を落とし、キャットウォールの多くの人々が彼を悼んだ。

 この街には、探偵に助けられた者がいくらでもいるのだ。


「すいませーん、マスター、おかわり」


 気づけばカップは空だった。ルリは瞬時に注文する。


 この店のコーヒーは別格だ。店内から漂う香りだけで、胸の奥がほどけていく気がする。


 ほどなくして、マスターの奥さん――通称“おばちゃん”が湯気の立つカップを運んできた。まるで母親のような安心感を与えてくれる人だ。


「はいはい、どうぞルリちゃん。探偵さん亡くなっちゃって……大変だろうけど、無理しないでねぇ」


 本来、処刑された者の話題を出すのは禁忌だ。しかし探偵の人望ゆえか、この街では例外扱いになっていた。

 本来なら、助手であるルリの身も危険だったはずだ。だが、あらゆる根回しを済ませて死んだらしい探偵のおかげで、彼女は今も自由の身だった。


 おばちゃんの柔らかな笑みが、探偵のことだけを考え続けて荒れていた心を、少しずつ静めていく。


 何度も、彼を忘れようとした。

 でも、どうしても、忘れられなかった。


 死を受け入れるより先に、こんな言葉が胸を占めていた。


 ――【探偵】は、タダで死ぬような人じゃない。

 ――必ず、何かの【推理】を遺している。


「ありがとう、マスター、おばちゃん。これ、お代ね」


 そう言って席を立つ。

 穏やかなカフェの空気から一転、外へ出ると街のざわめきが一気にまとわりついてきた。


「……私、何をしてるんだろ」


 思わず漏れた独り言に、ようやく自分の心の形が見えた。

 八年間共にいた相手を、まだ追いかけ続けているのだ。

 囚われてなどいないと思いたかっただけで。


 足を止めれば、きっと彼の気配が遠ざかってしまう。

 だから歩くしかなかった。彼が残した痕跡を、たとえそれがもう地図にも残らないほど薄れていても。


 そのまま足が向かったのは、探偵と最後に泊まった宿だった。

 数週間前の出来事だというのに、もう何年も前の記憶のように感じる。


「すみません、一泊……お願いできますか?」


 気づけば、宿泊の手続きの言葉が口をついていた。

 たぶんどこかで、探偵の死に区切りをつけたかったのだ。


 通された部屋は、探偵と共に泊まった、あの部屋。

 カーテンの色も、壁の剥げた箇所も、ベッドの沈み方まで、あの日と変わらない。

 なのに、そこにいたはずの人間だけが、ぽっかり抜け落ちている。

 彼の影を追うように生きてきたのに、今はもう、影を生む存在すらいない。


「そういえば、この机……彼、好きだって言ってたな」


 机が好きというのはどういうことだろうと、そのときは思っていたか。

 つい数週間前の出来事を、遠い昔のように思い出す。


 頰を机に擦り寄せる。

 あの、戻らない過去を追うように、【探偵】の温かさを求めるように。


 部屋の静寂は厚く、耳鳴りすら吸い込んでしまうほどだった。

 こんな静かな場所に、あの騒がしい天才がいたなんて、本当に信じられない。


 そのとき、机の下の引き出しから、コツンと、不可解な音がした。

 いや、ルリ自身が、長年、助手をやってきた反射のようなもので机を叩いたのだが。

 この音は、知っている。

 二重底になっているときの、音だ。


 胸が一度だけ強く跳ねた。

 長年、彼の手品のような推理に振り回されてきた感覚が、鮮やかに蘇った。


 ルリは思い出した。

 【探偵】の行動には、全て、意味があった。彼は、無駄を何より嫌った。  

 だとすれば、彼の「好き」にも、何か意味があるのではないか。


 案の定、引き出しの中身は二重底になっていた。無理矢理板をはがして、二重底の中身を見る――


 そのには、ノートの切れ端のような、小さく、本当にただのゴミのような、紙が入っていた。


 彼女は、震える手でその紙を手に取る。

 そこには、懐かしい、あの筆跡。

 八年間、見続けてきた、あの筆跡。

 【探偵】の、筆跡だった。


『あなたの記憶の探し物は、猫。

ただし、これは謎ではない』


 そう、書かれていた。


 その文は、正真正銘、【探偵】の遺言だった。 【探偵】の、最期の、推理だった。


 それだけで、視界が滲んだ。

 声にならない呼び名が、喉の奥で震えているのに、どうしても外に出てこなかった。


(どうして、私――)


「こんなところに、いたのね」


 紛れもない。

 【探偵】が遺した最後のメッセージ――最期の推理だった。


 頬を一筋の涙が伝う。

 探偵の遺志を、ようやく見つけたのだ。

 助手は、自らの矛盾した心の焦点を、ようやく一つに定められたのだ。


 しかし、その余韻はすぐに途切れた。


 ――推理の意味が、まるで分からない。


 事件名も、状況も、背景も、何一つ記されていない。

 手がかりにすらならない謎だけが、ぽつんと残されていた。


 助手は、その推理を解くどころか、触れることすらできなかった。


 ただ、胸の奥だけが確かに疼いていた。

 まるでその紙切れが、「私はまだ終わっていない」と告げているかのように。

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