第2話 欠けた少女
入学式という、通過儀礼のような一日が終わろうとしていた。
周囲の期待や希望とは裏腹に、私の心は冷たい石のように静かだった。
しかし、その静寂のさらに奥底、誰にも触れさせないマグマだまりのような場所では、卓球への渇望と、過去から伸びる影が、確かに
家へ帰る道を一人で歩く。
下ろしたてのローファーが踵に食い込み、僅かな痛みを訴えてくる。
真新しい制服はまだ体に馴染まず、まるで異邦人の衣装を纏っているような居心地の悪さがあった。
空は、少しずつ茜色に染まり始めていた。
電線が切り裂く夕暮れの空。カラスが鳴きながら巣へと帰っていく。
美しい光景だ、と脳の表層では処理する。
しかし、私の心はどこか冷めていた。
感動は、生存には不要な機能だ。
角を曲がり、祖父母が用意してくれた一軒家が見えてくる。
私の城、私の要塞。
そして、私の檻。
家に帰っても、「おかえり」と言ってくれる人はいない。
温かい夕食の匂いも、テレビの音もない。
あるのは、完璧な静寂だけ。
……悪夢は、どこにでも潜んでいる。
そして、私がこれから紡ぐ悪夢は、ここから始まるのかもしれない。
らしくない感傷を振り払い、玄関の前に立ち、鍵を取り出す。
金属が擦れ合う乾いた音と共に、重い扉が開く。
動かない冷気が、肌を刺した。
「……ただいま」
誰に聞かせるわけでもない挨拶が、埃一つない廊下に吸い込まれて消える。
誰もいない静寂。それが、私の日常であり、私が勝ち取った安全だった。
私は靴を脱ぎ、揃える。
洗面所で手洗いうがいを済ませ、自分の部屋へと向かう。
制服を脱ぎ、ハンガーにかける。
濃紺のブレザーが抜け殻のように揺れるのを横目に、私は着慣れた運動着へと袖を通した。
化学繊維の肌触りが、私を「学生」から「選手」へと切り替えるスイッチとなる。
教科書や学校からの配布物を机の端に追いやる。
どれもこれも、これから始まる中学校での生活を示す記号だ。
しかし、私の思考は、既にそれらを飛び越えていた。
簡単な夕食を一人で済ませる。味などどうでもいい。必要なカロリーと栄養素を摂取する、ただの補給作業だ。
食器を洗い、水気を拭き取る。
全ての「生活」というノイズを処理し終えた後、私は迷わず、廊下の突き当たりにある部屋へと向かった。
ドアノブに手をかける。
ここを開ければ、私は「静寂しおり」という一個の機能になれる。
ガチャリ、とドアが開く。
その部屋の中心に、それは鎮座していた。
国際規格の卓球台。
その深緑色の天板は、薄暗い部屋の中で、まるで深海の海面のように静まり返っている。
そして壁際には、祖父母が――私の唯一の理解者たちが――高額な費用を投じて用意してくれた、卓球マシンが待ち構えていた。
ここが、私のもう一つの世界。
いや、こここそが、私の本当の世界だ。
ラケットケースのファスナーを開ける。
中から現れたのは、私の半身とも言えるラケット。
シェークハンドのブレード。
表面には、最新のテンション系裏ソフトラバーが赤く、攻撃的な光沢を放っている。
そして裏面には、今や絶滅危惧種とも言える異質のラバー、アンチラバー。
黒く、光を吸い込むようなマットな質感。
指の腹でラバーの表面を撫でる。
裏ソフトの、指に吸い付くような強烈な摩擦。
アンチラバーの、まるで氷のように滑るツルツルの感触。
相反する二つの性質。
その感触が指先から脳髄へと伝わり、私の神経回路が書き換わっていく。
グリップを握る。
中指、薬指、小指でしっかりと柄をホールドし、軽く人差し指と親指でブレードを挟む。
何万回、何十万回と繰り返した動作。
素振りを一つ。
ヒュッ、と空気を切り裂く音が、静寂を破った。
体の軸、体重移動、腕の振り、手首の返し。
小学三年生から、誰にも見せることなく磨き続けてきた、この歪で美しいフォーム。
マシンの電源を入れる。
低いモーター音が唸りを上げ、私の鼓動とシンクロする。
設定パネルを操作する。回転数、ピッチ、コース。
私はマシンに、正確無比な「敵」であることを求めた。
最初はウォーミングアップ。
一定のリズムで送出される上回転のボール。
私はそれを、フォアハンド、バックハンドで淡々と打ち返す。
カコン、カコン、カコン。
規則正しい打球音が、部屋の空気を振動させる。
汗が滲み始める。
マシンの設定を変える。
速度を上げ、回転量を増やし、コースをランダムにする。
ここからが本番だ。
マシンが吐き出す高速のボールに対し、私はラケットをクルリと反転させた。
――ラケット反転。
指先の微細な動きだけで、ラケットの表裏を瞬時に入れ替える技術。
裏ソフトでの強烈なドライブ。
直後、反転させてアンチラバーでのカットブロック。
ボールの回転を殺し、
私の卓球は、相手との対話ではない。
相手の思考をハックし、僅かなバグを引き起こさせるための、プログラムだ。
体の動きとラケットの角度。
何ミリかのズレが、打球の質を決定的に変える。
それを、脳ではなく、細胞の一つ一つに記憶させる。
こんな高価なマシンを、嫌な顔一つせず買ってくれた祖父には、感謝してもしきれない。
彼らは知っていたのだ。
私が生きるためには、酸素と同じくらい、この「勝利への準備」が必要なのだと。
一時間、二時間。
時間は意味をなさなくなる。
汗が顎から滴り落ち、床に染みを作る。
呼吸が荒くなり、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
しかし、心は静かだった。
台風の目の中にいるような、絶対的な静寂。
集中。
目の前の白球だけを追う。
───解析 判断 実行
このサイクルの繰り返しが、私を強くする。
昨日の私を殺し、今日の私が生まれる。
今日の入学式。多くの人間がいた。
それぞれの感情、それぞれの目的、それぞれの「青い春」
私の卓球は、彼らに理解されることはないだろう。
「卑怯だ」「邪道だ」「卓球じゃない」
かつてコーチに言われた言葉が蘇る。
それでも構わない。
誰もいない部屋で、黙々とラケットを振り続ける。
マシンは人と違って、決して私を裏切らない。
文句も言わず、差別もせず、要求した通りのボールを返し続ける。
それは、複雑怪奇な人間関係よりも、ずっとシンプルで、ずっと信頼できる関係だった。
私は卓球台の向こうに、想像上の対戦相手を幻視する。
顔のない、強大な敵。
彼らが放つ決定打を、私はアンチで無効化し、絶望に歪む顔を想像しながら、裏ソフトで喉元を掻き切るようなカウンターを叩き込む。
カッ!
強烈なスマッシュが決まり、ボールが壁に当たって跳ね返った。
私は深く息を吐き、ラケットを下ろした。
静寂が戻ってくる。
しかし、それは以前のような冷たい静寂ではなく、熱を帯びた、心地よい静寂だった。
明日から、部活動の見学が始まる。
いよいよだ。
私が、この世界に牙を剥く時が来た。
数日後。
中学校では部活動の見学・体験期間が始まっていた。
放課後のチャイムと共に、生徒たちが一斉に動き出す。
私は教科書を鞄にしまうと、迷うことなく席を立った。
廊下は喧騒に包まれている。
私はその音の波を縫うようにして歩き、体育館を目指した。
目的は一つ。卓球部。
体育館の扉を開けると、汗と熱気、そしてシューズが床を擦るスキール音が押し寄せてきた。
バスケットボール部の掛け声、バレーボールの弾む音。
私はそれらには目もくれず、体育館の隅、ステージ脇に設けられた卓球スペースへと向かった。
そこには、既に何人かの生徒が集まっていた。
真新しい体操着を着た新入生らしき顔ぶれと、それを囲むように立っている先輩らしき生徒たち。
そして、腕を組んで練習を見守る、ジャージ姿の顧問らしき男性教師。
私は、体育館の入り口付近の柱の陰で一度立ち止まり、様子を観察する。
「君、卓球やったことある?」
「ラケットの持ち方わかる?」
先輩たちが、新入生に声をかけている。笑顔で、親しげに。
新入生たちも、緊張しながらも嬉しそうに応じている。
そこには「部活動」という言葉から連想される、健全で明るい空気が流れていた。
私は、その輪の中に入っていく自分を想像し、即座に
馴れ合いは不要だ。
私にはもう、人と関係を深める理由も資格もない。
───既に一度、親しい関係を捨てたのだから
私は、誰にも声をかけられるのを待つことなく、静かに、しかし迷いのない足取りで卓球スペースへと近づいた。
真っ直ぐに、顧問の先生の前へ。
「……失礼します」
私の声に、顧問が振り返る。
30代半ばだろうか。人の良さそうな、しかし目の奥には指導者特有の鋭さを宿した教師だ。
「卓球部に、入部させていただきたいのですが」
簡潔に、そして丁寧に伝えた。
余計な修飾語は省く。意志だけを提示する。
顧問の先生は、私の真新しい制服と、一切の愛想笑いを浮かべない私の顔を見て、少し驚いたように目を瞬かせた。
「ああ、B組の静寂さん、だね?」
入学して数日、私の名前を覚えているということは、私が教室で発している「異物感」が職員室でも話題になっているのかもしれない。
あるいは、単に教師として優秀なのか。
「入部希望か、ありがとう。見学はしたかい?」
「はい、入部を希望します」
見学は、入学式の日に遠目から勧誘の様子を見ただけだった。
だが、それで十分だった。
私に必要なのは、卓球台と、練習相手と、試合に出る権利。
それさえあればいい。
顧問は苦笑しながら、手元のバインダーから入部届を取り出した。
「まあ、熱意はあるようだしいいか、これを書いて」
私はペンを受け取り、必要事項を記入する。
1年B組 静寂 栞。
経験年数、4年。
その間も、周囲では部員たちが打ち合っている音が聞こえる。
先輩たちが新入生に、基本的なラケットの握り方や素振りを教えている声。
「そうそう、手首をもっと柔らかくね」
「ピン球は軽いから、優しく打つんだよ」
……甘い。
心の中で毒づく。
そんな指導では、全国どころか県大会も見えない。
だが口には出さない、出す理由も、水を差す権利も、私にはない。
人によって、卓球に熱量が違うことぐらい、私のような人間でも分かる。
……いや、昔、分からされた。
過去の記憶を振り払い、記入し終えた入部届を提出し、顧問の先生から簡単な説明を受ける、練習時間、用具の管理、挨拶の徹底。
一通りの説明が終わると、彼は言った。
「じゃあ、とりあえずラケットを持ってみようか。自分のラケットはある?」
「はい」
私は、肩にかけていた鞄を下ろした。
ファスナーを開け、ラケットケースを取り出す。
この瞬間だけは、いつも少しだけ緊張と高揚が混ざり合う。
私の、凶器を取り出す瞬間。
慣れた手つきでラケットを取り出す。
白いグリップ。
赤く輝くフォア面の裏ソフト。
そして、光を吸収する漆黒のバック面、アンチラバー。
それを見た瞬間、顧問の先生の顔色が変わった。
プロや指導者ならば、一目でわかる違和感。
「それは……ずいぶんと珍しいラバーの組み合わせだね」
彼はラケットを覗き込むようにして、眉をひそめた。
「バック面は……ツルツルだ。アンチラバー、か?」
その言葉に、周囲で打ち合っていた先輩たちも手を止め、こちらを振り返った。
ざわめきが広がる。
「なんだ、あのラバー?」
「アンチラバーなんて、見たことないぞ」
「昔流行ったやつだろ? 小学生で使ってるやついるんだな」
「変化系か? 扱いづらそう」
私は、彼らの反応を冷静に観察する。
好奇心、嘲笑、困惑。
……やはり、異質だと認識される。
それは、予測の範囲内だ。
アンチラバー。
かつては使用されていたが、ルールの改訂、そしてボールの材質がセルロイドからプラスチックへ変更されたことで回転量が減り、その価値を大きく落とした「過去の遺物」
時代に取り残された物。
それが現代卓球におけるアンチラバーの評価だ。
だが、私にとっては違う。
これは、私の半身。私の持つべき毒。
「はい、このラバーを使っています」
私は、特に説明を加えず、簡潔に答えた。
顧問の先生は、私の許可を得てラケットを手に取った。
指で表面をなぞる。
「うーん……フォア面の裏ソフト……これは、どちらもかなり扱いにくい、上級者向けのラバーなんだが」
彼は私を見上げ、探るような目をした。
「裏面表面、共に特性が真逆だ。コントロールするのは至難の業だ、練習はしているのかい?」
「はい、練習はしています」
私は顧問の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「これで、戦えます」
私の言葉には、確かな響きがあった。
それは、虚勢でも、自己肯定感の低さを埋めるための偽りの自信でもない。
小学三年生から、来る日も来る日も孤独に積み重ねてきた、圧倒的な練習量。
物理法則を味方につけるための膨大な分析。
それらに裏打ちされた、揺るぎない確信だった。
顧問の先生は、私の目を見て、数秒間沈黙した。
そこに宿る、中学生離れした冷徹な光に何かを感じ取ったのかもしれない。
彼はラケットを私に返すと、ポンと手を叩いた。
「よし、じゃあ、少し打ってみようか。口で言うより、見るのが早そうだ」
彼は周囲を見回し、一人の男子生徒を指名した。
「田中、相手をしてやってくれ」
「え、俺っすか?」
指名されたのは、2年生の先輩だった。
少し背が高く、裏ソフトの両面攻撃型。フォームを見る限り、基礎はできているが、癖のない素直な卓球をするタイプだ。
……実験台には丁度いい。
先輩が、少し戸惑った様子でこちらに近づいてくる。
新入生の女子、それも妙なラケットを持った相手。どう扱っていいかわからないといった顔だ。
私の異質なスタイルが、彼にどのような混乱を強いることになるか。
私は、ラケットを握り直し、卓球台の前に立った。
スポットライトが当たるような感覚。
周囲の視線が集まる。
ここから始まる。私の、中学校での卓球生活が。
私がこの世界で、自身の存在価値を証明するための闘争が。
そして、その輝きが、いつか私自身をも焼き尽くす悪夢へと繋がる物語が。
私は深く息を吸い込み、構えた。
世界が、スローモーションになる感覚。
スイッチが入る音がした。
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