異端卓球 ~アンチラバーの少女は、回転を殺して嘲笑う~  異端の白球使い√β

R.D

第1話 異端者の旋律

 春の陽光が、残酷なほどに眩しかった。


 真新しい制服の感触が、肌に僅かな違和感を与えている。糊のきいた白いシャツ、濃紺のブレザー、そして首元には控えめなリボン。


 鏡に映るその姿は、どこにでもいる平凡な中学生のそれだった。


 これから始まる新しい世界。その住人としての資格を得た少女が、鏡の中に立っている。


 しかし、その姿はどこかよそよそしく、鏡の向こうにいるのが本当に私なのか、確信が持てなかった。


 まるで精巧に作られた人形が、ただそこに置かれているかのような空虚さ。


……これが、私か…。


 心の中で呟いても、返ってくるのは静寂だけだ。


 無理もない、小学三年生のあの日以来、私の知っている「私」は、ずいぶんと形を変えてしまったのだから。


 感情という名の色彩を剥ぎ取り、生存という名の機能だけに特化した、歪で合理的な精神。


 それが今の私を構成する全てだった。


 視線を鏡から外し、部屋を見渡す。


 必要最低限の家具だけが置かれた、無機質で整然とした空間。


 ここは、祖父母が安全のために、私に用意してくれた家だ。


 父はおらず母もいない、私はこの家で、たった一人で暮らしている。


 あの日の音に、力に怯えることは、もうない。


 怒号も破壊音も、何かが砕ける音も、ここには存在しない。


 あるのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。


 私はリビングへと足を向けた。


 朝食を一人で済ませる。


 キッチンに立ち、食パンを一枚トースターに入れる。


 タイマーを回す「ジジジ」という音が、静まり返った部屋に大きく響く。


 焼き上がったパンにバターを塗る。


 ナイフがカリカリと表面を削る音。


 簡単なことだ。


 誰かに「おはよう」と話しかけられることもない。


 誰かの機嫌を伺い、足音に耳を澄ませ、気配に気を張る必要もない。


 ただ、空腹を満たすために定められた手順を踏むだけ。


 母は今、ここから少し離れた実家で、祖父母と一緒に暮らしている。


 時々、事務的な連絡は取るが、顔を合わせる機会は少ない。


 最後に会ったのがいつだったか、思い出すのにも時間がかかるほどだ。


 でも、これで良いのだと思う。


 母にとっても、私にとっても。


 それぞれの安全な場所で、それぞれの生活を営む。


 過去という呪縛から逃れ、互いに傷つけ合わない距離を保つ。


 それが、今の私たちにとって、最も合理的で最適な形なのだから。


「……行ってきます」


 誰に言うでもなく呟き、私は玄関のドアを開けた。


 春の風が、少し冷たい空気を運んでくる。


 家を出て、陽射しの中を歩き出す。


 通学路には、私と同じ真新しい制服に身を包んだ子供たちが溢れていた。


 彼らの多くは、親と一緒に中学校へと向かっている。


「れいかちゃん、制服似合ってるよ!」


「クラス、誰と一緒かなぁ」


「部活何にするか決めた?」


 弾むような声。


 彼らの顔には、新しい生活への期待と、ほんの少しの不安が混じり合った、分かりやすい感情が浮かんでいた。


 希望に満ちた未来を疑わない、無防備な表情。


 その横を、私は一人で歩く。


 私には、そのどちらもなかった。


 これから始まる生活に、胸を躍らせるような期待も、足がすくむような不安も抱けない。


 私の心は、凪いだ水面のように静まり返っている。いや、凍り付いていると言った方が正しいかもしれない。


 私はただ、定められた手順を踏むだけだ。


 中学校へ行き、授業を受け、義務教育という過程を消化する。


 それだけのこと。


 それ以上の意味を、この新しい日々に求めてはいけない。期待すれば、失望するのだから。


 希望に、意味はない。


 中学校の正門が見えてきた。


「入学おめでとうございます」という看板の前で、親子連れが記念撮影をしている。


 私はその脇をすり抜け、門をくぐった。


 途端に、人の波に飲まれる。


「新入生は体育館へ移動してください!」


「保護者の方は受付をお願いします!」


 体育館へ案内される指示の声、周囲のざわめき、上履きの擦れる音。


 膨大な量の情報が、私の鼓膜を叩く。


 しかし、それらは全て、私の五感を通して単なる「情報」として処理されるだけだった。


 …煩(うるさ)い、人の密度も高い、不快だ。


 脳内で状況を分析する。


 しかし、私が得られた分析は結果は『不快』ただそれだけだった。


 私は指定されたクラスの列に並び、体育館へと入る。


 パイプ椅子が整然と並べられた広い空間。


 自分の名前が書かれた席を見つけ、腰を下ろす。


 背筋を伸ばし、膝の上で手を組む。


 周囲の新入生たちは、隣に座っているまだ見ぬ友人たちと、さっそく楽しげに話し始めていた。


「ねえ、どこの小学校?」


「制服、まだ慣れないよね」


 緊張を共有することで、安らぎを得ようとする本能的な行動。群れることで安心する、動物のような習性。


 私はふと、頭上の保護者席を見上げた。


 ビデオカメラを構える父親、ハンカチで目頭を押さえる母親。我が子の晴れ姿を見守る、温かい視線の数々。


 私の席には、誰も座っていない。


 空席が一つ、ぽつんとあるだけだ。


 それは、予測済みのことだ、祖父母は高齢で足が悪く、母は来ない。


 寂しさのような感情は、湧き上がらない。


 ただ、「私の保護者は不在である」という事実を認識するだけ。


 心臓が痛むことも、涙が出ることもない。


 私の思考は、いつも現実から一歩引いた場所にある。


 まるで幽体離脱でもしているかのように、自分自身と周囲の状況を俯瞰している感覚。


 目の前の光景を、観察対象として捉える。


 右斜め前の男子生徒は、貧乏ゆすりをしている、緊張の表れだ。


 左隣の女子生徒は、しきりに前髪を気にしている、自意識が過剰になっている状態。


 彼らは、この新しい環境に、自身の感情を素直に乗せている。


 恐怖も、喜びも、羞恥も、すべてを隠さずに。


 私には、それがひどく遠く、歪な世界の出来事のように感じられた。


 ガラス一枚隔てた向こう側で、別の種族が営む劇を見ているような疎外感。


 でも、それでいい。


 感情は、常に最適な判断を妨げるノイズとなる。


 恐怖で足がすくめば逃げ遅れる、同情で手が止まれば反撃される。


 私は、あの日、そう結論付けたのだから。


 式が始まり、校長先生の話、来賓の祝辞と続く。


 長い話の最中も、私は微動だにしなかった。


 やがて式が終わり、私たちは新しい教室へと移動した。


 教室の黒板には、チョークで美しく装飾された「入学おめでとう」の文字。


 担任の若い男性教師が、ハキハキとした声で話し始める。


「えー、それじゃあ、出席番号順に自己紹介をしてもらおうか」


 教室内が少しざわつく。


 私の番が来るまで、他の生徒たちの様子を観察する。


「趣味はサッカーです! よろしくお願いします!」


「読書が好きです。仲良くしてください」


 自分の趣味や特技を話したり、ウケを狙って滑ったり、緊張で声が裏返ったり。


 彼らは必死に「自分」という個性をアピールし、この集団の中での居場所を確保しようとしている。


 そして、私の番が来た。


 私は席を立ち、真っ直ぐに前を向いた。


「静寂しおりです。よろしくお願いします」


 簡潔に。そして、一切の感情を乗せずに。


 視線が一瞬、私に集まるのを感じた。


ーーーー(暗そう)(真面目そう)(愛想がない)


 そんな無言の評価が、肌に突き刺さる。


 しかし、私は何も付け足さずに着席した。


 すぐに次の生徒に順番が移る。


 私は、その短い時間で、周囲の生徒たちの顔色、話し方、仕草から、いくつかの情報を読み取っていた。


 声の大きい者がカーストの上位に行くだろう。


 あそこで固まっている女子たちは、すでにグループを形成しつつある。


 彼らが私に抱いたであろう印象も、ある程度予測できる。「関わりづらい異物」


 上等だ。


 下手に馴れ合って、干渉されるよりはずっといい。


 担任の先生の話も、必要な情報だけを選別して頭に入れる。


 提出物の期限、校則、避難経路。


 そして、新しい教科書と配布物が配られる。


 その中の一枚。


 部活動紹介のプリント。


 ホームルームが終わり、放課後になった。


 廊下には、色とりどりの勧誘ポスターが貼られている。


 剣道部、バスケ部、吹奏楽部……。


 上級生たちが声を張り上げ、新入生を勧誘している。


「バスケ部どうですかー! 初心者歓迎!」


「吹奏楽部、見学だけでも来てねー!」


 その喧騒の中。


 私は、一枚のポスターの前で足を止めた。


 手書きで「卓球部」と書かれた、少し古びて、端がめくれかけたポスター。


 他の華やかな運動部に比べれば、地味で目立たない。


 体育館の入り口付近では、部員らしき生徒たちが数人、ラケットケースを手に控えめに新入生に声をかけている。


 ……卓球部、か。


 その三文字を目にした瞬間、私の胸の奥で、凍り付いていたはずの何かが、小さく脈打った。


 私の、もう一つの居場所。


 いや、私にとって唯一の、偽りのない場所。


 父の支配から逃れ、祖父母に与えられたこの家で一人暮らしを始めた私にとって、全てを懸けられる場所。


 小学三年生のあの日。


 祖父母の家で、物置の隅に追いやられ、埃をかぶっていた卓球台を見つけた時。


 私は知ったのだ。


 ここだけが、私の全てを受け入れてくれる場所なのだと。


 ……ここなら。


 祖父母は、あの家を私のために用意してくれた。


 私が、誰にも邪魔されず、安心して何かに打ち込めるようにと。


 それが、私にとっては卓球だった。


 卓球、それは私にとっての聖域。


 物理法則というルールが支配する、完璧に制御可能で、しかし不可能な世界。


 ラプラスの悪魔でさえ、この回転(スピン)の行方は読み切れないだろう。


 初期条件の僅かな揺らぎが、未来を劇的に書き換える混沌(カオス)、バタフライエフェクト。


 計算通りに打ち出されたボールが、計算外の軌道を描く瞬間の背徳感。


 そこには理不尽な暴力も、予測不能な感情の爆発もない。


 あるのは、私が支配し、私が導き出した解だけ。


 ボールは打った通りに飛び、回転をかけた通りに曲がる。


 例外はない。あるのは、私の計算不足だけだ。


 自己肯定感など、存在しない。


 鏡に映る自分を愛することなどできない。


 だからこそ、勝利という明確な結果でしか、私は自身の価値を証明できない。


 勝つことだけが、私が「生きていていい」という免罪符になる。


 放課後の廊下を、私は歩き出した。


 迷わず卓球部へ向かう生徒たちの流れに加わる。


 体育館の隅から聞こえてくる、あの音。


 カコン、カコンという、乾いた、規則正しい打球音。


 微かに漂う汗と、ラバーのゴムの匂い。


 卓球台の青と深い緑、ネットの純白、そしてボールの鮮やかなオレンジ。


 その色彩が視界に入った瞬間、私の心は奇妙なほどに落ち着いた。


 私にとって最も安らげる色彩、最も心地よい音、最も安全な空間。


……勝つ、勝って勝って勝ち続ける、負けは許されない。


 誰にも理解されないかもしれない。


 異質だと嘲笑されるかもしれない。


 それでも構わない。


 この異質なスタイルこそが、身長145cmという絶望的な体躯で劣る私が、勝利を掴むための唯一無二の最適解だと、私は結論付けているのだから。


 小学三年生から、誰にも知られることなく磨き続けてきたこの技術。


 かつて通ったクラブチームのコーチに「邪道だ」と反対されても、私は私の信じる道を突き進んできた。


 秘匿したまま、誰にも知られずに、私は強くなる。


 家に置いてあるマシンと、私だけとで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る