突然、課長と秘密の関係になりました

櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)

諦めろ、これは運命だ1

 

 今日は寒いから、一番分厚いセーターを着よう、と思ってタンスの奥から引っ張り出したら、セーターが冷えてて寒かった。


 そんな一日のはじまり――。


 まだ薄暗い早朝の道。

 キャリーバッグをガラガラ引きずりかけた南一彩みなみ ひいろは、静かな街に音がやたら響くことに気がついた。


 ヤバイ。

 ご近所さんを起こしてしまう。


 一彩は道を挟んで家の向かいにある駐車場までバッグを抱えて歩き、車の後部座席に詰め込んだ。


 寒い、暗い、眠い。

 でも、きっと楽しい旅行になるはずだ。


 気の置けない大学時代の友人たちとの旅。


 職場での憂さを晴らすんだーっ、と一彩は駅へと向かった。


 


 ホームは寒かったが、新幹線の中は暖かく。


 駅のコンビニで買った酒で、みんなで一杯やりはじめた頃から、かなりいい気分になっていた。


「旅最高だねっ」


「ほんとっ。

 一彩ひいろも仕事のことは忘れなよ」

乾子かんこが言う。


「なに? 一彩。

 なんかあったの?」


 そうりくに問われ、

「それが前の課長が田舎に帰っちゃって」

と言うと、すぐに、


「ああ、人のいいおじさんって言ってた課長」

と返ってくる。


「その代わりに来たのがさ――」

と言った瞬間、一彩の視界にそれは入った。


 向かいのホームに止まっている新幹線の窓。


 誰かがこちらを見ている。


「……イケメンで若くて」

「え、いいじゃんっ」


「出世頭だけど、頑固で融通が利かなくて、目つきが鋭い……」


 もはや、今、見ているままを言っているだけだった。


「いつも私を怒鳴っている課長――


 ……が行ってしまった」

と一彩は先に出た向かいのホームの新幹線を振り返る。


 こちらを睨んだ顔のままの課長、鴻上彰宏こうがみ あきひろを乗せ、新幹線は行ってしまった。


 ……今の聞こえてなかっただろうな。


 いや、隣の新幹線にまで、車内での会話が聞こえるとは思わないが。


 課長、超能力かってくらいの地獄耳だからな、と思いながら、小さなプラスチックのカップに入った冷酒をぐびりとやる。


「えっ? なに?

 もしかして、今の新幹線に、その課長が乗ってたのっ?」


「……そういえば、課長、出張してたよ。

 今、帰りなのか」


 昨日帰れなくて、泊まりになったんだな、と思う一彩に、

「でもさ、でもさっ。

 こんなところでまで出会うなんて、運命じゃないっ?」

と友人たちは面白がって言ってくる。


「いやいや。

 新幹線はバスとかと違って、あちこち走ってるわけじゃないんだから。


 線路はここにしかないじゃん。

 出会うこともあるよー」

と一彩はその運命を叩き落とした。

 



 友人たちと温泉旅行を楽しんだあと。


『あとちょっとで着く~』

と帰りの新幹線から母親に連絡を入れると、すぐに返信があった。


『あんた、今日、近所のスーパー、牛肉、メガ盛りが安いって言ってたじゃない。

 買ってきてよ』


 ……まずお帰りとかないのだろうか。


 そう思いながらも、車で友人のひとりを送ったあと、スーパーに寄る。


 えーと、メガ盛りメガ盛り。


 何処だっけ?

と旅の疲れを引きずったまま、一彩はメガ盛りを探した。


 妙にがらんとしたところに、一個だけ肉がもりもりの大きなパックがある。


 あと一個しかないっ。


 一彩は慌てて手を伸ばしたが、先に誰かがそれを取ろうとした。


 長く綺麗な男の指。


 思わず、見惚れる感じの繊細な指先だったが、何故か一彩は、びくりとして手を引っ込めてしまった。


「南か」


 スーパーでも無駄によく響くこの声はっ。


 いつも自分を怒鳴り飛ばす鴻上彰宏こうがみ あきひろの声だった。


「あ、課長~。

 お疲れ様です~」


 駄目だ。

 同じ系列の別のスーパーに行こうっ。


 車で来てるしっ、と覚悟を決めたとき、彰宏がそのメガ盛りを差し出してきた。


 鼻筋の通った知的な顔で、

「仕方ないな、お前に譲ろう」

と言う。


 なんか王子様にすごいもの渡されてるみたいなんだけど。


 牛肉のメガ盛りなんだが……。


 いや、ありがたいけど、申し訳ないなと思い、断る。


 だが、彰宏は、

「いいんだ。

 俺が欲しいわけじゃないから」

と言う。


 彼女さんとかかな?

と思いながら、


「うちも母親がいると言ってるだけなので」

と一彩は言ったが、


「いいから、持って行け。

 それ、お前の成績が悪くて教科書真っ二つにした母親だろ?」

と彰宏は言う。


 ……よくご存知で。


「すみません。

 ありがとうございます」


 一彩はぺこぺこ詫びた。


「このお礼は必ずや」


「いや、そんなことより、仕事のミスをなくせ。

 それに、そもそも、その肉は――」


「彰宏ー」

とテノール歌手のようないい声がした。


 品のいいロングコートを着たダンディな感じの男がかなり遠くで手を上げている。


「今行く」

と彰宏はその男に答えていた。


「じゃあ、また」


「あ、はい、ありがとうございました」

と一彩は深々と頭を下げる。


 ……意外にいい人だ、課長。


 でも、うちの親の昔の話、何処で聞いたんだろうな?

と思う一彩だったが、彰宏は、社食で一彩がしゃべっていたのを聞いただけだった。




「最後の一個だったよー」

と帰ると、母親が、


「ありがとう。

 炒めて」

と言う。


「え?」


「そこに野菜切っといたから、一緒に炒めて」

と大河ドラマを見たまま振り返りもせず言う。


「……はーい」


 荷物を置き、着替えてきたあとで、ペニンシュラキッチンの上に置いていた肉のフィルムをはがす。


 これ全部入れるんじゃないよね?

 今、余計なこと訊いたら怒られそうだけど。


 母親をチラとうかがったとき、ふと思い出していた。


『それに、そもそも、その肉は――』

と言いかけた彰宏の言葉。


 その肉はなんなのですか、課長。


 お~まえの肉だ~、とか?

 いや、ホラーか。


 バチバチと跳ねる油に、いて、と言いながら、一彩は肉野菜炒めを作った。


 


 月曜日、一彩は廊下で彰宏と出会った。


「お、おはようございますっ。

 昨日はありがとうございましたっ」

と頭を下げ、


「助かりました。

 メガ盛り……」

と言いかけたが、


「職場でくだらない話をするな」

とぴしゃりと言われてしまう。


 顔を上げると、彰宏は相変わらずの凍てつくような視線で自分を見下ろしている。


 ……この人とは絶対上手くやれないな~。


 早く出世してどっか行ってくれないかな~とヘタレなことを思いながら、

「すみません」

と一彩は頭を下げて逃げ去った。


『それに、そもそも、その肉は――』

の意味なんて聞けそうにないなあ、と思いながら。




 そんなこんなで神経をすり減らしながら仕事をし、一彩は水曜日を迎えた。


「はあ~。

 もう疲れるよ~。


 いくらイケメンでも、あんな絶対にミスは許さんっ、みたいな顔だとさー」


 ロッカールームで別の部署の友だちにそうもらす。

 このフロアの女子社員全員が同じロッカールームなのだ。


「じゃあさ、行こうよ」

と同期のすみれが言う。


「え? 何処に?」


「あんた言ってたじゃん。

 今日、商店街のカードで健康ランドの割引がきくって」


「ああ、そうだったね。

 行こう行こうっ」


 行こう、癒されにっ、と意気揚々と出発したのだが。


 ……何故だ。


 何故、隣のマッサージチェアにあなたが座っているのですか、鴻上課長……。


 他のマッサージチェアは空いていない。


 目を閉じ、ゆったりとマッサージチェアに癒されていたらしい彰宏は、なにかの気配を感じたように目を開けた。


 こちらを見て、驚いた顔をする。


「またお前かっ」

「それは……」


 おっとっ、課長に向かって、それはこっちのセリフですよ、と言うところだったっ。


「お、お疲れ様です~っ」

と言って、一彩はマッサージチェアを諦めて逃げた。


 だが、そのあと、漫画コーナーでまた遭遇する。


「お、お疲れ様ですっ」

と馬鹿の一つ覚えのように言って逃げるとき、後ろで彰宏が、


「……もういっそ、運命なのか?」

と呟く声がしていた。


 なんの運命なんですか?

 イラつく部下に出会う運命?




 その週末、この間旅に出た友人たちと食事に行った。


 隠れ家的なレストランで、全部個室になっているので落ち着く。


 楽しく旅の思い出話をして笑いながら、

「あ、ちょっとお手洗い」

と廊下に出た一彩は足を止めた。


 向こうから、彰宏が歩いてくるところだったからだ。

 彰宏も、はっとした顔で歩みを止める。


「……ス、ストーカーじゃないですよ」


 一彩は思わずそう言っていた。

 彰宏は今来たところのようだし、こちらはもう宴も半ば。


 どちらかと言えば、彰宏の方が追ってきた感じなのだが。


 これだけのイケメンで、あれだけのエリート様。

 つけ回す女性もいるかもしれないと思い、一応、そう言っておいたのだ。


 すると、

「彰宏ー」

と言いながら、彰宏の友人らしきイケメン様が入ってくる。


 クールな彰宏と対照的な感じの派手なイケメンだった。

 お洒落な感じのメガネをかけている。


 彰宏と一彩が見つめ合っているのに気づいた彼が笑いながら訊いてきた。


「あっ、なにっ? 彰宏。

 もしかして、彼女?」


「とんでもないですっ」

と一彩は激しく手を振ったが、何故か彰宏は振らなかった。


「あっ、じゃあ、失礼しますっ、課長っ」

と難しい顔をしている彰宏がただの自分の上司であると大きな声で主張し、一彩はその場から逃げた。


 なんかこの人と会うたび、ダッシュで逃げてるな、と思いながら。

 


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