第3話
「あねうえ」
くりくりとした青い瞳で、マシューがこちらを見上げた。
「ただいま、マシュー。良い子にしていたのかしら」
折角、母親譲りの甘めな垂れ目をしているのに、にこりともしないジェマイマは、残念なご令嬢だと言えるだろう。
だが、この親子ほど年の離れた異母弟は、ジェマイマを「あねうえ」と呼んで慕ってくれる。
ジェマイマの人生を大きく変えたマシュー。
だが、ジェマイマはこの異母弟を心から愛している。残念ながら、表情が乏しくて非常にわかりづらくあるのだが。
王城から帰ってきたジェマイマに、マシューがとことこと歩み寄ってくる。可愛いではないか、足が短くて。
登城するために正装のドレスを着ていたのだが、そのままマシューを抱き上げると、横で侍女が慌てる様子が伺えた。
マシューは直ぐにジェマイマの胸元に顔を
《ドレスが、ドレスが、お嬢様のドレスに坊ちゃまのヨダレが》
侍女の思考は丸わかりであったのだが、ジェマイマはマシューに甘いので抱っこをせがまれれば抱き上げてしまう。
義母も大体は侍女と同じことを考えるのだが、格下の子爵家から嫁入りした彼女は、ジェマイマに遠慮をしてしまうようだった。
ジェマイマと義母は十歳ほどしか歳が離れておらず、どうしてこんな侯爵家の後妻に求められてしまったのかと、本心では思っているだろう。
彼女はどことなく、母の若い頃に似ていたのだと、父はそんなことを言っていた。似ているからと後妻にされて、本当に迷惑を掛けてしまったと思うのだが、彼女こそ侯爵家に男児を授けた功労者なのである。
お陰でジェマイマは、ローレルと婚約することになってしまったが。
傍から見れば、これほどの栄誉はないだろう。
王太子妃である。いずれは王妃となることが約束されて、侯爵家から初の王妃が輩出されることになる。
そうだというのに、ひとえにあの不吉な夢がジェマイマの心を暗くさせていた。
実のところ夢ばかりではなく、ジェマイマは、ローレルにも不信を抱いていた。
あの胡散臭い笑み。
学園で麗しい微笑みを振り撒いているローレルは、二人で会った応接室でその笑みを引っ込めた。
それから、本来の彼であろう顔をほんの少し覗かせたのだが、それもどこか嘘くさくて、ジェマイマは隙を見せまいと心の鍵をきっちり掛けたのだった。
たった一度の夢のために、これほど用心深くなることはないだろう。自分でも可怪しなことだと思うのだが、胸の奥から囁きが聞こえるのである。
今度は死んではならない。
人はいつかは没するもので、生まれたからには死なねばならない。だが、それにも長い短いはあるだろう。夢の中では少なくとも四、五回は若死にしていたと記憶している。
「マシュー、降りなさい。お姉様はお着替えしなくてはいけないのよ」
そろそろヨダレが垂れる頃に、義母がマシューを引き取ってくれた。こういう頃合いを見るのが上手いのは、彼女の謙虚さの表れだろう。
「お義母様、ありがとうございます」
心を込めて礼を言ったつもりだが、垂れ目なだけで表情の乏しいジェマイマでは、上手く伝わらなかったかもしれない。
だが、やはり出来た女性である義母は、そこで控えめに微笑んだ。
ああ、確かに。目尻がどことなくなんとなく少しだけ母に似ている気がしないでもない。
「マシュー。あとで絵本を読んであげましょう」
にこりともせずに言ったジェマイマに、マシューは満面の笑みを向けてくれた。
「あ、ここ、やっぱりシミになっておりますわ」
自室でドレスを脱ぐと、侍女が直ぐさまドレスのヨダレ染みを確かめた。
「仕方ないわ、ジェーン。可愛いのですもの」
「あんまり甘くなさっては、お嬢様がお輿入れなさるときに落胆なってしまいますわ」
三歳児に「落胆」という言葉は酷く不釣り合いに聞こえたが、確かにそうだろうと思った。
マシューはこんな表情筋の硬すぎる姉を慕ってくれているのである。
「マシューもお城に連れて行こうかしら」
「おやめください、なんのために奥様がご苦労の末に嫁いでこられたのか」
「本当よね」
義母は格上の侯爵家から、突然、後妻に求められて、それこそ人生設計の天地がひっくり返ってしまっただろう。それなのにあんなに可愛いマシューを産んで、その上、懸命に侯爵夫人として家政と向き合ってくれている。
しばしマシューの顔を思い浮かべて現実逃避をしていたのだが、ゆったりとした部屋着に着替えてジェーンが部屋を出て、一人になって考えた。
どうしたら、当たり前の生を生きることができるだろうか。
どうしたら、あの王子から逃れられるのだろうか。
心を暗くする死の影とは別に引っ掛かりを覚えているのは、夢の中でジェマイマがローレルを愛していたことだった。
愛しているのに愛されない。それは哀しいことである。
愛だけで済まないのが王家との婚姻で、それは貴族も変わらないことなのだが、
「死ぬほどよ?」
事故や流行病は仕方がない。だが薬に頼ったり、果ては離縁が叶わず毒を呷ったのだ。
夢のことであるのに、喉の奥に微かな毒の味が思い出されるようで、ジェマイマは眉を
冬の日没は早くて、窓の外にはすでに
ぶるりと震えてしまったのは、寒気のせいばかりではないだろう。
赤々と燃える暖炉に目を移して、ジェマイマは思わず腕を
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