第17話

PTAの女帝 ~昭和の倫理観~

 校長室の空気は、張り詰めた糸のように緊迫していた。

 PTA会長・西園寺富子は、佐藤健義の宣戦布告を鼻で笑った。

「……『異物』? 『喉に詰まる骨』? 言葉遊びがお好きなようですね」

 西園寺は、扇子を開くことすらしない。ただ、冷ややかな瞳で佐藤を見下ろすだけだ。

「佐藤さん。あなたは生徒会長として、全校生徒の模範となるべき立場です。……そのあなたが、規律を乱した生徒を擁護するのですか? それは『優しさ』ではありません。『甘やかし』です」

「甘やかしではない。権利の主張です」

 佐藤が反論する。

「彼女は過ちを犯したかもしれない。しかし、それを理由に学ぶ場を奪うことは……」

「過ちには責任が伴います」

 西園寺が言葉を遮る。その声には、一切の迷いがない。

「彼女は学生の本分を忘れ、快楽に流された。その結果、新しい命を宿した。……ならば、母親として生きる覚悟を決めるべきです。学校は『子育てごっこ』をする場所ではありません」

 正論だった。

 昭和の価値観において、彼女の言葉はあまりにも正しく、反論の余地がない。

 井上校長が小さく頷いてしまっているのが、その証拠だ。

 ◇

「……御託は聞き飽きたな」

 低い声と共に、堂羅デューラが一歩前に出た。

 その巨体が放つ威圧感は、並の大人なら失禁するレベルだ。

「あんたの言う『責任』ってのは、弱い者を切り捨てることか? ……腹の子に罪はねぇだろ。それを守ってやるのが、大人の甲斐性ってもんじゃねぇのか」

 堂羅が西園寺の目の前まで詰め寄る。

「俺は馬鹿だから難しいことは分からねぇ。だがな……妊婦を泣かせる奴は、男だろうが女だろうが、俺の『敵』だ」

 殺気。

 だが、西園寺は眉一つ動かさなかった。

「……野蛮ですね」

 彼女は、汚いものを見るように堂羅を一瞥した。

「暴力で理屈をねじ伏せるつもりですか? ……それが、あなたの言う『大人の甲斐性』? 笑わせないでください。あなたのその態度は、ただの獣(ケダモノ)です」

「なっ……!」

 堂羅が言葉に詰まる。彼の「気合」は、相手が恐怖を感じて初めて通用する。恐怖を感じない相手には、ただの空回りだ。

 ◇

「……あらあら。堂羅さん、レディに対して失礼ですわよ」

 桜田リベラが、優雅に割って入った。

「西園寺様。……単刀直入に申し上げますわ」

 リベラは懐から、小切手帳を取り出した。

「学校の評判をご心配されているのでしたら、我が桜田財団がバックアップいたします。……新校舎の建設費用、および地域への寄付金。これだけあれば、世間の口も塞がるのではなくて?」

 リベラが小切手に金額を書き込み、テーブルに滑らせる。

 井上校長がその桁を見て「ひぃっ!?」と目を剥くほどの金額だ。

 これで落ちない大人はいない。リベラは確信していた。

 だが。

 ビリッ。

 西園寺は、小切手を手に取ることもなく、その場で引き裂いた。

「……無礼者」

 静かな、しかしマグマのような怒気が迸った。

「教育をお金で買えるとでも? 私たちPTAは、子供たちの未来を守るために活動しているのです。……あなたのその薄汚いお金で、私たちの『誇り』を汚さないでいただきたい」

 リベラの笑顔が凍りついた。

 金が通用しない。それどころか、彼女の最大の武器である「財力」を、「薄汚い」と断じられたのだ。

 ◇

 完敗だった。

 法も、暴力も、金も。

 西園寺富子という「昭和の良識」の前では、全てが子供騙しだった。

「……校長。処分は明日の職員会議で決定しなさい。もし決定がなされない場合……」

 西園寺は冷たく言い放った。

「私はPTA会長として、この学校の全教職員の入れ替えを教育委員会に嘆願します」

 井上校長が崩れ落ちる。

「わ、分かりました……明日、正式に……」

 西園寺は踵を返した。

 去り際、真理の方を見ることなく告げた。

「……恥を知りなさい」

 バタン。

 ドアが閉まる音が、死刑判決の木槌(ガベル)のように響いた。

 ◇

 校長室に残されたのは、沈黙と、真理の嗚咽だけだった。

「……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 真理は泣き崩れている。

「私が馬鹿だったから……みんなに迷惑かけて……」

 雪之丞が、やりきれなそうに壁を殴った。

「……クソッ! なんてババアだ! だが、あいつの言う通りだ。世間ってのは、ああいう『正論』の顔をして襲ってくるんだよ……!」

 堂羅が歯噛みする。

「……手も足も出なかった。あんな女は初めてだ」

 リベラが破られた小切手を拾い上げる。

「……プライドが高い相手ほど、金は逆効果でしたわね。私のミスですわ」

 誰もが諦めかけていた。

 明日には処分が決まる。もう時間がない。

 だが、一人だけ目が死んでいない男がいた。

 佐藤健義だ。

 彼は眼鏡を外し、丁寧にレンズを拭いていた。

「……面白い」

 佐藤がポツリと呟いた。

「あ?」堂羅が顔を上げる。

「彼女は言った。『過ちには責任が伴う』と。……その通りだ。だからこそ、我々は『責任』の所在を明らかにしなければならない」

 佐藤は眼鏡をかけ直した。

 タバスコの小瓶を取り出し、残量を確かめる。あと一回分。

「……真理君。君は、まだ諦めていないな?」

「え……?」

「さっき、西園寺会長に『恥を知れ』と言われた時……君は一瞬だけ、彼女を睨み返した。僕は見ていたよ」

 真理がハッとする。

「……悔しかった。あんな言い方……お腹の子まで否定されたみたいで……!」

「それでいい」

 佐藤はニヤリと笑った。

「その怒りが、原告(きみ)の武器だ。……明日、全校生徒を集めて『緊急生徒総会』を開く」

「生徒総会だと? 何をする気だ」

 堂羅が問う。

「決まっているだろう。……『学校法廷』だ」

 佐藤の瞳に、炎が宿る。

「職員会議の決定など関係ない。生徒の運命を決めるのは、生徒自身の意思(総意)だ。……僕たちが、この学校の『世間』をひっくり返す」

 最強の敵・西園寺に対し、佐藤が選んだ戦場は、全校生徒という「陪審員」がいる体育館だった。

 勝率は限りなくゼロ。

 だが、彼らは法曹の卵だ。逆転無罪を勝ち取る術を知っている。

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