第16話

発覚 ~退学届と憲法26条~

 翌朝。校長室の空気は、鉛のように重かった。

 窓の外は秋晴れだというのに、ここだけは湿った梅雨のようだ。

 革張りのソファには、項垂れる女子生徒――真理(まり)が座っている。

 その向かいで、井上白長校長が、一枚の書類をテーブルに差し出した。

 『退学届』。

 理由は「一身上の都合」と書かれている。

「……真理くん。分かってくれるね?」

 井上校長の声は震えていたが、そこには拒絶できない強制力が込められていた。

「君のしたことは……その、不純異性交遊の結果だ。我が校の校風を著しく乱す行為だ。PTAの西園寺会長も激怒しておられる。『即刻処分しろ』とな」

「…………」

 真理は何も言わず、膝の上で拳を握りしめている。

「処分(懲戒退学)となれば、君の経歴に傷がつく。だから、これは私の温情だ。……『自主退学』ということにしてあげるから、ここにハンコを押しなさい」

 それは、昭和の学校における常套手段だった。

 学校側の体面を守るために、生徒自らが辞めたことにする。実質的な強制追放。

 隣に立っていた担任の平上雪之丞が、苦渋の表情で口を開いた。

「……校長。まだ相手の男も見つかってねぇんですよ? 彼女一人に責任を押し付けるのは……」

「黙りたまえ平上先生! ならば君がPTAを説得できるのかね!? 理事会を黙らせられるのかね!?」

 井上の悲鳴のような怒号に、雪之丞は口を噤んだ。

 真理が、震える手でペンを取る。

「……いいんです、先生。私が悪いんです……私が、ふしだらだから……」

 涙が書類に落ち、滲む。

 ペン先が紙に触れようとした、その時だった。

 バシィッ!!

 横から伸びた手が、真理の手首を掴んで止めた。

 佐藤健義だ。

 その後ろには、腕を組んだ堂羅デューラと、扇子で口元を隠した桜田リベラが立っていた。

「……何をしているんだね、生徒会長!」

 井上が立ち上がる。

 佐藤は真理の手からペンを取り上げ、内ポケットからタバスコを取り出した。

 キャップを開け、一気に煽る。

 カッ!!

 喉が焼け、脳髄が冷え渡る。法曹モード、起動。

「……校長。訂正していただきたい」

 佐藤の双眸が、鋭い光を放った。

「彼女は『ふしだら』ではない。そして、この退学届は『温情』でもない。……これは、**教育行政による『強要罪』**だ」

 ◇

「きょ、強要だと!?」

 井上の顔が紅潮する。

 佐藤は退学届を指先で弾いた。

「校則のどこに、『妊娠したら退学』と書いてありますか?」

「な……そ、そんなことは常識だ! 学生の本分に反する!」

「常識? 曖昧ですね。……『罪刑法定主義』をご存知か。あらかじめ法(ルール)になければ、人を罰することはできない。校則に明記されていない以上、彼女を退学させる法的根拠は存在しない」

 佐藤は一歩踏み出す。

「さらに言えば、日本国憲法第26条『教育を受ける権利』。彼女には学ぶ権利がある。妊娠・出産は病気でも犯罪でもない。それを理由に教育の機会を奪うことは、憲法違反だ」

 正論。あまりにも純度の高い正論。

 だが、ここは昭和だ。

「り、理屈を言うな!」

 井上が机を叩く。

「法がどうあれ、周りが許さん! 他の生徒への影響はどうなる! 『学校で子供を産んでもいいんだ』などという風潮が広まったら、学校崩壊だ!」

「その『風潮』とやらは、誰が作ったルールだ?」

 低い、地を這うような声が響いた。

 堂羅デューラだ。

「……男は逃げてもお咎めなしか? 腹を痛める女だけが、なぜ石を投げられて、学校を追い出される?」

 堂羅が井上の胸倉を掴まんばかりに詰め寄る。

「俺は馬鹿だが、筋の通らねぇ話は大嫌いだ。……この退学届、破り捨てていいか?」

「お、お待ちになって!」

 リベラが進み出る。彼女は優雅に書類を手に取り、眺めた。

「破るのは美しくありませんわ。……校長先生? 私、計算してみましたの」

 リベラが電卓を叩く。

「彼女をここで退学させて、中卒のシングルマザーにするのと……我が校で支援して卒業させ、納税者として社会に送り出すのと。どちらが日本経済にとってプラスか。……答えは明白ですわね?」

「そ、そういう問題では……!」

 三方向からの波状攻撃。

 井上校長は脂汗を流し、ソファにへたり込んだ。

「わ、私だって……鬼じゃない! 辞めさせたくて辞めさせるわけじゃないんだ! だが……だが……!」

 井上は頭を抱えた。

「……来るんだよ。『あの人』が。この学校の真の支配者が……」

 ◇

 その時。

 コツ、コツ、コツ……。

 廊下から、冷たく、硬質なハイヒールの音が響いてきた。

 空気が変わった。

 校長室の温度が、一気に氷点下まで下がったような錯覚。

 雪之丞が顔を青くして呟く。

「……来ちまったか。『女帝』が」

 バン。

 ドアが開かれた。

 そこに立っていたのは、一人の女性。

 一分の隙もない着物姿。結い上げた黒髪。そして、能面のように感情のない、しかし絶対的な威厳を湛えた表情。

 獄門高校PTA会長――西園寺(さいおんじ)富子。

 地域の有力者であり、昭和の「良識」と「世間体」を擬人化したような存在。

「……騒がしいですね、校長」

 声は静かだった。だが、佐藤たち三人が思わず身構えるほどの「圧」があった。

「まだ処理は済んでいないのですか? その汚らわしい異物を、いつまで神聖な学び舎に置いておくつもりです?」

 彼女の視線が、真理を射抜く。

 真理は「ヒッ」と悲鳴を上げ、雪之丞の背中に隠れた。

 佐藤はタバスコを握りしめた。

(……来たな。ラスボスだ)

 西園寺は、佐藤たちを一瞥もしない。彼女にとって、生徒など取るに足らない存在なのだ。

「即刻、処分なさい。さもなくば……来年度のPTAからの寄付金、および地域協力は全て白紙にします」

 金の力ではない。「徳」と「世間」の力による恫喝。

 これが、昭和の壁。

 佐藤は前に出た。

「……異議あり。西園寺会長、その処分は無効だ」

 西園寺が、初めて佐藤を見た。

 ゴミを見るような目で。

「……誰です、あなたは。子供が、大人の話に口を挟むものではありません」

 佐藤は眼鏡を押し上げ、不敵に笑った。

「獄門高校生徒会長、佐藤健義です。……以後、お見知り置きを。あなたが排除しようとしている『異物』が、あなたの喉に詰まる骨になる男です」

 戦いのゴングが鳴った。

 法曹トリオ VS PTAの女帝。

 未成年の未来をかけた、学校法廷の開廷だ。

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