私には妻と3歳になった息子がいる。私はある地方都市で有名な会社で営業として働いている。自慢ではないが、私には、高層階に購入した眺望が自慢の一室、仕事で任されたポジション、頑張りに見合う給与、目に入れても痛くない可愛い息子、真面目で私に尽くしてくれる妻、そんなこの世の幸せ全てを詰め込んだような宝物が毎日の生活を彩り、私を笑顔にさせてくれていた。

 自分自身、仕事を頑張れるのは家族のため、家では息子を大変ながら自宅で面倒を見てくれる妻がいる。正社員として働いていたが、保育園がなかなか空いておらずにやむなく自宅保育になってはいたが、妻は3歳までは自分で育てたかったと嫌な顔せずに子供に向き合ってくれていた。息子は絵本が大好きで、選ぶ絵本には、ちょうやてんとう虫、カブトムシなど自分が好きな虫がたくさん登場していた。近所には自分の両親が住んでおり、姑である実母とは上手く関係を築いていた。私の両親は定年していたため、何か困りごとがあるとすぐに来訪し、私達家族を支えてくれていた。妻の両親も車で2時間ほど離れた地に住んでおり、2か月に1度予定を合わせて泊まりに来てくれていた。

 はっきり言って誰もが羨む理想の家族だと思っていた。

 妻がマンションの自室から飛び降り自殺するまでは。


 あの日、息子は私の実母と近所のショッピングモールへ買い物に出かけていた。息子を迎えにマンションに来た際に妻と話したようであったが、普段と何一つ変わらない笑顔で少しばかり談笑してから出かけたらしい。実母も何か気付いてあげることが出来たのではないかとあの日以降憔悴した様子で自宅に籠る日が続いている。妻の両親はもっと酷く、義母は精神を病み心療内科で治療を受けている。義父は初め私を罵倒し、責め立てたが、時間が経ち最愛の娘の死を受け入れ今では時折近況報告をしてくれている。私も仕事に身が入らず、休みがちになる日が続いていたが、少しずつ前を向くことが出来るようになってきた。

 


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 ある日、妻の遺品整理をしていると、ネックレスを収納しているボックスから一通のカラー封筒を発見した。誰に宛てたものなのか記載ははなかったが、直感で「これは遺書だ」と理解し、震える指先で恐る恐る封を開けた。中には何枚もの便箋に文字が綴られていた。

 見慣れた筆跡。「あなたへ」とだけ書かれたその四文字が、まるで刃物のように胸へ突き刺さる。触れれば壊れてしまいそうな紙切れが、どうしようもなく重い。

 もう二度と妻の声を聞けない現実が、噴水のように溢れて、妻の残した文字列の一字一句愛おしく感じた。しかし、文頭にはこう書かれていた。


「最初に謝っておきます。あなたが思っていた“幸せな妻”は、もうずっと前に亡くなっていました。」

 その一行が目に入った瞬間、喉の奥がひきつり、息が漏れた。頭の中には疑問符ばかりが浮かび、嫌な汗がじわっと体を冷やしていく。

 便箋をめくるごとに、彼女の寂しさが、後悔が、そしてそのなかでも捨てきれなかった愛情が滲む。

 文字が涙で滲むのか、涙が文字を滲ませるのか、もう分からない。読み終えたとき、男はそっと手紙を胸に抱いた。まるで彼女がまだそこにいるかのように。


「どうして気づけなかったんだよ……」


 震える声だけが、静まり返った部屋に落ちていく。

 その響きさえも、もう彼女には届かない。

 それでも彼は、手紙を抱きしめたまま動けなかった。

 痛みを確かめるように、失った愛を確かめるように――。

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