6月5日 貴重書架2
開架がない時でも、週に一度は空気を通すようにしている。それでも大量の書物のせいで、中はひどく乾燥しており、紙や皮の匂いが充満していた。
明かりをつけた館内は、本館のような華やかさとは無縁だ。
古い書物特有の背表紙の暗さが加わり、かなり薄暗く感じる。
それでも俺は小さい頃から、この場所が大好きだった。
ふと見ると、アレシアが手を広げて深呼吸をしていた。はぁぁーと感嘆の声まで上げている。目が合うと恥ずかしそうに肩をすくめた。
「わたくしこの古い本の匂いが大好きで、書庫に来るとつい吸い込んじゃうんです。お父様には怒られちゃうんですけどね」
「私も同じですよ。小さい頃からここの匂いが大好きでした」
「まあ嬉しい! たまらないですよね」
子供のように目をキラキラさせたアレシアは、声が大きくなっている。
印象が違う……なんだろう、少しだけリュシエンヌに似た感じだ……。
いやいや、仲良くなる必要はない。会話も最低限にしたほうがいい。
突然、アレシアが目の前を駆け抜けた。お目当ての鉱物関連書架を見つけたらしい。
「あああ、こんなにたくさん! さいっこうです……あっ失礼いたしました」
アレシアはずっと興奮しっぱなしだ。
見た目から受けていた王女のイメージとは違い、同世代の友人達と一緒にいるように感じる。これが、本来の彼女の姿なのだろうか?
「いえ、構いませんよ。本が好きな方が最初にここに来たときはそうなります。手が届かない本は私が取るので言ってください」
「はい、ありがとうございます!」
彼女は書架に向かい、一番上を見上げて数冊を指さした。
俺は折りたたまれた三段脚立を開き、指定された本を取る。さらに、分厚い本や取り扱いづらい革製の本を机まで運んだ。
その間アレシアは、書架をくるくると見回り、色々な場所で感嘆の声をあげていた。棚から何冊か抜き出した後、少し考えた末に一冊だけを選び、残りを戻す姿が見えた。
「一冊だけで大丈夫ですか?」
「はい……子爵にここの開架予約をお願いしたら、午前中だけにしていると言われて」
貴重書架の本は、もちろん持ち出しが禁じられている。
閲覧希望者も、エルネスト家に取次ぎをし、簡単な審査の後でないと入館ができないことになっている。利用時間の規則はないが、希望者のほとんどは朝一番から閉館までを予約する。
そういえば、予約時間は『午前中のみ』と指定を受けていた。
「ああ、そうだったんですね……」
「はい。わたくしがいつも午前中だけ図書館を利用しているので、子爵が気を遣ってくださったんだと思います……次は、一日まるごとお願いしますね!」
アレシアはくしゃっとした笑顔を見せて机に座ると、一番分厚い建築の歴史本を開いて読み始めた。
どうしてなのか、モヤモヤとした感情が胸に渦巻く。アレシアに対して、なぜか後ろめたいような気持ちになってくる。
これは、一方的に彼女を避けようとしていたことへの罪悪感なのだろうか……。
変に意識するのも良くない、何か本を読もう。
ここには天文に関連した神話の本があったはずだ。リュシエンヌの話を聞いているうちに、自分も読むようになっていた。あれなら時間が経つのもあっという間だろう。
俺は神話と民俗学の棚から数冊を選び、机へ向かった。
途中、アレシアがふと俺の手元を見て、小さく「あっ」と声をあげた。
「どうかしましたか?」
「あの、ルドウィクさん。それってもしかして『星女神の神話』の……まさか原本ですか?」
彼女の方からは、背表紙しか見えていないはず。
それだけで分かるとは、相当な本好きだ。
「よくご存じですね、これは原著です。保存状態が良いので挿絵も鮮やかで、流通している本には収録されていない話も載っています」
「まあ! なんて素敵なの」
席を立ったアレシアは、さっき以上に瞳を輝かせた。
あの表情、明らかにこの本を見たがっている。すこし背伸びまでしている。
先程こみ上げた罪悪感を消すつもりではないが、俺はアレシアの机まで行き、手にしていた本を置いた。
「わっ! これ開いても?」
「もちろん、どうぞ」
手を差し出すと同時に、アレシアはそうっと表紙を開き、目次を確認し始めた。
大きな瞳が瞬きさえ忘れている、まるで子供みたいだ。
お目当てのものを見つけたのか、一枚の挿画でページを捲る手が止まる。
「この版画なんて素晴らしい。細かい線までしっかりと表現されていて繊細だわ。こんなに美しかったのね……わたくし、この二番目のお話が大好きなんです」
「二番目……ああ! これはリュ……」
あぶない、つい普通にリュシエンヌの話をしてしまうところだった。
アレシアが話しやすくて、会話に乗せられてしまう。やはり近づくべきではなかった……。もう、この本は読まなくてかまわない。ここに置いて早く席を離れよう。
「よろしければ、この本はお読みください」
「はい……あの、リュシエンヌさん? 挨拶しかしたことがないけど、ルドウィクさんの婚約者なのよね?」
アレシアが突然リュシエンヌの名前を口にした。
挨拶というのは、初めてここに来た時のことを言っているのだろうか。
あの時は言葉を交わしてもいないはずだ。なぜ、名前を憶えているんだ?
「はい、婚約者です」
アレシアと話したくない。
いや、これ以上話をしてはいけない。
「わたくし、セレーネとお友達になったの。彼女からよく、ルドウィクさんとリュシエンヌさんの名前を聞くものだから」
「そうですか……」
ああ、セレーネからか。そういえばさっきも手を振っていた。
一番最初にできた友達がセレーネなのだろう。
こればかりはどうしようもないことだ。
「そうだ! わたくしセレーネに、あの後のこと聞くのを忘れてたわ!」
「あの後って?」
「ルドウィクさんもいらしたわよね、一昨日、ヴェーバー邸の噴水で……」
ヴェーバー邸!
一瞬言葉に詰まりかけたが、何事もないように続ける。
「ああ、あの日ですか。セレーネは大丈夫だったと言っていましたよ」
「あの……婚約者のリュシエンヌさんは、大丈夫でした?」
ドンッと心臓が跳ねた。
アレシアの口から発せられたリュシエンヌの名前に、思わず顔を見てしまう。
彼女は真っ直ぐに、睫毛さえも動かさずこちらを見ている。
「リュシエンヌさんもあの場所に居ましたよね? 真っ青な顔をしていたように見えたのですが、大丈夫でしたか?」
あの日見た、アレシアの無表情な顔を思い出す。
全身がじわりと嫌な感情に包まれていく。
あんなに離れた場所にいたリュシエンヌを、心配する意味があるだろうか? 顔色なんてわからないはずだ。
彼女に対して表現できない罪悪感のようなものを感じていたが、もう構わない。 やはり彼女には何かがある。これ以上反応するのは駄目だ。
「さて、アレシアさん。雑談はこれくらいにしておかないと、本を読む時間が無くなりますよ」
「あ、そうだわ! わたくしったら」
アレシアは肩を少し上げ、神話の本を俺に返すと、開いていた建築の歴史本を読み始めた。
頭を下げて自分の机に戻る。時計は9時30分を指していた。
あと2時間半の辛抱か……。
二人きりの館内。
乾いた空気と古書の甘い香りの中、アレシアがページをめくり、何かを書く音がだけ聞こえてくる。
目の前に神話の本を置いたが、読む気になれない。
リュシエンヌが好きな本をアレシアも好きだというのは、皮肉な話だ。
仲良くなっていた『前』の頃は、そんな話もしたのだろうか。
にこにこと愛想が良いアレシア。
王女という素性を知っているからこそ、なおさら好意的に感じてしまう。
――俺はリュシエンヌだけが知っている世界で、彼女に恋をしている。
彼女の本心がつかめず、苛立ちさえ覚える。
館内のからくり時計が、カタカタと音を立てた。
その音で我に返る。
気づけばもう十二時になっていた。
アレシアに目をやると、名残惜しそうな表情で本を閉じ、広げていた紙や筆記具を片付けている。
やっと二人だけの時間から解放される。
書架の鍵を手にして「本はそのままでいいです」と、声を掛けながらアレシアの机に向かった。
アレシアは机の横に立ち、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。あっという間の時間でした」
「3日前からご連絡いただければ、一日解放することも可能です。いつでも申し付けてください」
一応こうは言っておくが、次にカトラン子爵家から開架の予約があったときは、書棚の整理という名目で使用人に同行してもらおう。
二人っきりは今日限りにしたい。
「一日ここに居られるなんて最高です。あ! それでしたら、今月の18日は大丈夫かしら? その日はまだ何の予定もないんです」
18日? なにかあった気がする、今月の18日というと休日か……。
あっ! この日は毎月定例のお茶会の日だ。
皆で作成したはずの案内状がアレシアの手元に届かず、彼女一人がお茶会に出席しなかったという、不可解な日……。
そうか、そういうことか。
リュシエンヌは、自分に起こった事、見た事しかわからない。
もしかして俺は、18日に二人きりでアレシアと会っていたのではないだろうか……。
背中がざわっと粟立つのを感じた。
「ルドウィクさん?」
アレシアが不思議そうな顔で、首を傾げる。
「ああ失礼しました。たしか、18日はお茶会があるはずです。参加希望に名前を記入しておくと、案内状が届くようになっています」
「まあ素敵。わたくしまだお友達と呼べる人がほとんどいないんです。参加してもいいのかしら?」
「もちろんです。人は結構集まると思いますよ……まあそういう事なので、他の日を考えておいてください」
「はい!」
嬉しそうに微笑むアレシア。
人が集まるのは君のせいだよと言いたいが、そんなことはどうでもいい。こっちは出席さえしてくれればいいんだ。
書棚を整理している間、アレシアは持ってきた荷物を両手に持ち、静かに待っていた。
「では、参りましょうか」
「はい」
入り口の重い扉を開き、アレシアが出るのを確認してから明かりを消す。
ガラス張りの渡り廊下に出ると、来たときと同じ光景に、言いようのない安心感が全身を包んだ。
本館へ戻り、司書達の姿や利用者の話し声が聞こえ、ようやく肩の力が抜ける。
大きく伸びをしたい気持ちを我慢していると、アレシアがこちらにくるりと向き直った。
「ルドウィクさん。今日は突然だったのに、本当にありがとうございました」
「いいえ、とんでもございません。図書館は当家で管理しておりますので、お気になさらず」
「はい。今度はリュシエンヌさんとお話がしたいです」
アレシアはそう言うと、口の両端をあげ、美しくお辞儀をした。
なぜ、またリュシエンヌのことを……
これは考えすぎではない、やはり何かが不自然だ。
返す言葉が見つからず黙っていると、「眉間の皺、すごいですよ。では失礼いたします」と目を細め、アレシアは本館の中央廊下へ歩いていった。
透きとおるようなオレンジ色の髪が、その背中で揺れている。
俺はただ、その後ろ姿を見送るしかなかった。
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